「いていい」場所、つくる

ネットワーク
「ダメ、帰る」と言える居場所を

う~ん、居場所ねぇ。それぞれの人が、「自分が、いていい場所」という感覚を持って安らげれば、どこでもいいと思う。パチンコ屋でも、公園のベンチでもかまわない。好きな電車を何時間でも見られる駅のホームでも。引きこもりの人たちであれば、「家」を否定する必要もないし。

 

でも社会の「居場所ブーム」に関しては、ちょっと違和感がある。「居場所、サードプレイスは必要」という意味合いから出てくるのは、「成長させる場でなくちゃいけない」「学習させる場でなくちゃいけない」ということ。今までそれを担ってきた地域や家庭が機能しなくなってきたので、社会や団体が「我々が、『居場所』をつくってあげるから」と言うわけ。何十年も「居場所づくり」に動いてきた私にすれば、今の居場所ブームは、「いや~っ、絶対に違う! 」という感じ。ジョーさんも、「支援者側の意図から枠づけられた場は、『居場所』じゃない!」と、すごく怒っているわけです。

 

「支援ネット」や「“がきんちょ”ファミリー」では、あまり最初から企画をきっちり決めてやってこなかった。例えば、みんなが集まったときに「なんかさ~、ごはん食べる~」となってワイワイ食べた後、「トランプしよ〜」と誰かが言い出せば、「じゃあ、やろう」というだけの話。第一、子どもたちは「居場所」なんて思ってない。「私、ここにいていいんだ」「あんまり怒られないね」みたいな場であればいい。もっと言うと、「どんな言葉を出してもいい場所」「イヤな顔をしていい場所」「『ダメ、帰る』と言える場所」であることを、大切にしてきた。今ね、「帰るの、おかしいだろ!」という場所ばかりでしょ。学校もそうだし、塾もそう。

 

子どもたちの「居場所」を運営しているとき、子どもたちが一番嫌がったのは、名前・住所・連絡先を書くこと。行政とつながっているところであれば、ちょっと問題になった子なんか、学校に連絡されたりして、すぐに行きにくくなる。それで大人の目の届かないところで遊ぶようになる。私のところは名前だけ。だから「大山さんとこは、何にも言われないからいいよ」って、悪ガキばっかり集まったのかもしれないな。悪ガキ、好きなんです。深い人間性を表現してくれるから。いい感性を持ち、ある意味、自分を持っている子だともいえる。子どもらしい子どもとも。誤解されちゃうかもしれないですけど、悪ガキから教わることが、ものすごくある。子どもたちの人生観からです。自分の想いや考え、大人のやってることに対する批判や不満などを、本当に独り言のように吐き出してくれる。こちらはただ黙って聞く。自分の家族のことはかばうから、どんなに家族のことで悩んでいても、そのことは絶対に言わない。この子、悩んでるなと思ったら、大人はつい深く聞きたくなるけど、そうしない。「べつに聞きたくないんだけどさぁ〜」という感じで「ふ~ん」と聞いていると、話がずっと止まらない。

いろんなことを胸にためこんでるんだろうなぁ〜と。

 

あるとき、歓談していたアートの先生が、「そういう子たち、よく絵を描いてますよ。音楽をいつも聞いている子もいます。癒されるんでしょうね、自分の好きなことに没頭していれば」と話す。それで、「なんか自由に描いてみな~」というイベントをやってみたり。

 

若い人たちの活動とつながり、ずっと付き合う

若い人たちの活動と連携もしてきました。先ほどのジョーさん、そして「子どものSOSソングライター」の悠々ホルンさんは、「こども”ど真ん中”プロジェクト」のころからの付き合い。静岡の「居場所」づくりの活動をしている「たごっこのたっちゃん・みっきぃ」さんとも、何年越しになるかな。「一般社団法人Colabo」の仁藤夢乃さんは、10代女性を支える活動をされていますが、出会ったとき、彼女はまだ20代入ったばかりでした。ステキな人たちです。「子ども食堂」がブームになったときは、NPO法人「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」さんだとか、いろんなところの食堂関係の人とやり取りしましたよ。

 

学習支援関連では、足立区で学生さんたちが活発に動いて、その様子を見守っていました。ブームに乗って大きな事業にして、今や豊島区や江戸川区で、学習支援の中心的な存在になっています。足立区では、なかなか動きにくかったのね。若い人たちが自分たちのやりたい方法と、ちょっと違ってくる。区内の大きな団体に吸収されないと、何もできない、みたいな。それだと、自分たちがせっかく育ててきたチームが消えちゃうじゃない。行政が応援してくれないと前へ進まないようなところがあって、ずいぶん後押しして、さまざまなところにつなぎました。

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