「いていい」場所、つくる

ネットワーク
貧しい街で育ち、福祉施設に居候した青春時代

私の原点は、東京下町の山谷と花柳界の吉原、浅草。そして「蟻の街」というバタヤ部落。貧しい人たちが暮らす生活共同体の中で生まれ育ち、暮らしました。子どものころに過ごした浅草には、教会がたくさんあって、悩み苦しむ人を助けるボランティア活動が身の回りにたくさん見ることができました。

モンテッソーリ教育の考え方も、そんな環境で自然と身に付いたのかも。普段、意識してませんが。

 

大学生になったら、大学紛争で授業がない。ノンポリ(政治運動に関心ない層)というわけでもないのですが、学生運動の一辺倒な教義にも、いまいち共感できない。錦糸町のエレベーターガールをやって稼いで授業料を納めているのに、まったく勉強できず。4年生になったら頭にきて「もういい! 卒業証書なんかいらない」と退学。教授にだいぶ止められましたけどね。

 

知的障害者の作業所が、三多摩にたくさんあり、「見学させてください」と遊びがてらに転々と回っていたら、聾唖の人たちと仲良しになって、そこの作業所で住みこませてもらったんです。クリーニングの仕事で生計を立てていたんですが、利益の大半は作業所が持っていく。一生懸命働いても少ない給料。だけど、彼らは幸福そうなんです。文句言いながらも、親からも自立し、自分の足で立っているからです。

 

聾唖の人たちだから、生活は静かなんだけど、みんな明るい。手話や点字を習わなくても、身振り手振りで意思疎通できました。浅草にもあった感覚ですが、人間の感性をふるに使えば、心は通じるんだ、ということを学びましたね。

 

働くこと、家庭を持つことを「経験」

1年半、そこで過ごしたんですが、ずっとこのままではダメだなと。働くか、結婚するか、私なりの進路を決めなければと思ったんです。結局家に呼び戻されました。父親は体が弱い人で、その負担を母が背負うなど、いろんなことを抱えていた家族でしたし、あまり心配はかけられない。

 

ところで、下町って面白いところで、経験していない人たちを認めない厳しさがある。吉原の姉さんたちが、この色町について外からあ~だこ~だ言う人に、「吉原のこと、よく知りもしないくせに、ふざけんな!」とタンカを切る。

 

そんな言葉にも刺激を受けて、まず一般企業に勤め出しました。最初、印刷関係から始まって、伊勢丹の外商のパートに行きつき。芸能人が買い物で支払ったお札をザーッと数えたりしましたよ。「世の中はこんな風に動いてんだ。面白いな~」と思って勤めているうち、もう27、8歳になる。親が「結婚しないの?」と言ってきて、「しょうがないな。自分も家庭を持たないとな」と結婚し、子どもが生まれ。

 

子育てを始めたら、いろいろなものにぶつかる。初めて経験することばかりで、学ぶしかない。そのうち、親の介護をすることにもなり。施設介護などの介護と、家庭生活の中での介護は違うんだなと、改めて実感。嫁の立場があり、待ったなしの子育てがあり。当事者になって初めて分かることがあるんだなぁと。

 

主婦の自然な感覚から始まった「子ども食堂」

子ども食堂を、近所の学習地域センターで始めたのは、子どもたちの生活の現状を、見過ごせないというよりは、自分の子どもやその友だちに、ご飯を食べさせる感覚と同じなんです。センターの「居場所」運営に出入りする主婦仲間の間で、「私たちがさ、なんかつくってきたら、地域の子たち、食べるかしらね?」という話がたまたま出て。「じゃあ、つくってこようか」と家から持ってきたら、子どもたちがすごい勢いで食べてくれたんです。「じゃぁ、次はもっといっぱい持ってくる?」ということで、自然な流れで定期的な活動になり。当時は「子ども食堂」という言葉もありませんでしたから。

 

その頃は、子育ても終わり、家族とモヤモヤしながら暮らす年齢になっていました。だからか、食べてくれる子どもたちがいるのが、主婦として嬉しかった。「美味しい? どう? 」と尋ねると、「美味しい!」とほうばってくれる。味噌汁なんか、大鍋に何倍つくっても飲み干しちゃう。その賑やかさが、なんかちょっと楽しい時間になって。そうそう、生活に張りが持てた。この体験が、“がきんちょ”ファミリーの「こども食堂」の出発点。そのうちに大人や高齢者の方々が一緒に食べては駄目ですかと!…どこも応援してくれませんでしたけど、名称を「地域食堂」にあらためて、誰でも来て良い場にしました。連絡もなく当日60人位がにこやかに多世代交流できる場に。今の開催コンセプトは、ここからなんですよ~けっして、貧困対策ではないんです。

 

「女」の縛りから、自由になってみて

子育ても、介護も、ぜ~んぶ終わったとき、女って、自分の生活になるかというと、そうならない。家庭があるから。三度三度ご飯作らないとならないし。「なんで、私はお休みないんだよ!」と。男女の違いに、一生しばられ、解放されない矛盾を感じても、どうにもなんないという思いが悔しかったなぁ。「もう本当に割り切らせてもらうしかない!」と、夫婦間であえて離婚騒ぎも起こし、なんだかんだで、「一心同体の家族なんだから、勘弁しよう。」ということで収まりましたが。

 

65歳過ぎたころ、旦那に、「私が先に逝っちゃったら、生きていけないでしょ。自立してください。お昼なんかつくんないからね!」と、はっきり言葉にできたんです。旦那は、夜中、キッチンに立ち、台所で一生懸命片づけしていたり。そのかわり、自分で好きなもの買ってきて作るようになりました。70歳となった今、一番自由になったかな。そして、私の活動も応援してもらっていますよ。

 

女って、世間の「波」に乗らなきゃ、結局家庭生活もなにもコケてくる。子、親、旦那のために、自分より優先して動かなければならない。日本社会の女の存在って、そんなところがある。家族を守るために、切り盛りして、強くならざるを得ない。

 

もし自分が男に生まれたら、どうだったろう? いや~、単に平凡な変人になってたかも。私って、どこか「波」に乗れず、世の中を斜めに見るところがありますから。「仕事なんかしたくない」なんて宣言し、縛られず、暴れまくって、やりたいことをやる。それで、人に叩かれ、社会に叩かれ、壊れてしまったかもしれない。やっぱり、女の人生を生きたことで、旦那に守られ、子どもに守られ、じいちゃん、ばあちゃんに守られ、家族に守られてきたのかな。

 

「福祉」に反発して思うこと

私、「福祉」を、すごく憎んできたところがあります。

 

小さいころから貧困や差別、過酷な現実をまざまざと目の当たりにしてきました。小学校時代の同級生は「中学校に行くよ」と言っていたのに、親に吉原へ売り飛ばされたと後で聞いて、おいおい泣きました。「なんで、そこまで泣くの?」と、母親が不審に思うくらいに。

 

「福祉」って、困った人を助けると思っていました。だけど、一人一人に手を差し伸べるものではなかった。産業として、儲けの対象にしている側面が見えて反発もしました。反発するけど、生活の矛盾に苦しむ人、幸せをつかめない人に対して、ほっとけないという気持ちもますます募っていく…そんな思いが若い頃からあって。「勉強するしかない」「様々な取り組み方を知る」ことから始めようと、心に決めたんです。「知る」ことから現実を感じたら、違う考え方に出会うかもと。

 

あれから、いろんなことを経験し、学びました。結局、何が人を助けるんだろう…。人は、やっぱり人で助けられるんだな、ということを、ものすごく見てきた気が。

今になって、思えばですけど。

 

(聞き手/ ライター 上田隆)

 

 

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