ヤングケアラー支援は、「家族まるごと」で

ヤングケアラー

<講演・水月琉凪さん>

心の病抱え、母子生き抜く

「ヤングケアラー」という言葉に衝撃

「ヤングケアラー」という言葉によって、多くの当事者が衝撃を受け、傷ついた事実について知っていただきたいと思います。

 

親である当事者は、たいていがこの言葉を聞いて、自分を責め、苦しみました。私もその1人です。特に心を痛めたのは、息子が「俺が母ちゃんを守る」と言ってくれたことです。私はそれを息子の愛情と受けとめて、ずっと嬉しく感じていて、頼もしいと思ったし、実際頼ることも多かったのです。けれど、幼い息子に、親を守らなければと思わせたことは、間違いだったのかと、もう本当に激しく後悔しました。

 

私は、双極性障害で、躁鬱の波がとても激しい精神疾患を持ちます。息子が小学3年生の時に

不登校になってからは、以降3年間、ずっとほぼ丸1日、家で母子一緒に過ごす生活だったので、息子は、その躁鬱の波をもろにかぶりました。私は彼に、夫や夫の両親、実母の愚痴も言いましたし、苦しみを打ち明けたり、鬱の辛さを切々と訴えたりもしました。息子は黙って聞いてくれ、慰め、共感すらしてくれました。でも、精神的なサポートをさせることによって、私は、息子の「子ども時代」を奪っていたのかということに気が付いて、愕然としました。

今、息子は19歳ですが、発達障害に加えて、強迫性障害と双極性障害を抱えています。遺伝や環境の要因にしても、全部、私のせいじゃないかと思い、何度泣いたか分かりません。

 

「ゆらいく」メンバーの、子に対する想い

「ゆらいく」カフェでも仲間に、「ヤングケアラー」という言葉について、どう思うか問いかけました。すると次のような答えが返ってきました。

 

「どうしても体調に波があり、子どもに心配をかけているのは辛い」「子どもが必要以上にしっかりして、申し訳ない」「『ママに笑顔でいてほしい』という子どもの純粋な思いに心が痛む」「子ども自身がストレスをためこんでつぶれないか心配」「自分もヤングケアラーだったので連鎖させたくない」「子どもがヘルパーさんを嫌がるので、結果的に子どもの負担が増えてしまう」…など、さまざまな意見が出されました。やっぱり、みんな、「ヤングケアラー」という言葉を知って、苦しんでいました。誰も子どもを「ヤングケアラー」にしたいわけではありません。

 

夫の実家で暮らすも、孤立無援の生活

私は出産後、夫の実家のある地方に引っ越しました。誰も知り合いのいない閉鎖的な田舎町です。私は実母の影響もあって、完全母乳で息子を育てました。妊娠が分かって以来、自己判断で断薬。授乳中は躁状態となりましたが、そのおかげか、夜泣きによる睡眠不足や、授乳時期の厳しい食事制限にも耐えられました。でも、離乳食が始まるあたりからだんだん調子が悪くなり始め、息子が1歳2カ月で離乳したとたん、劇的に悪化してしまいます。感覚過敏になって、意味の分からないことを泣き叫ぶようなパニックを頻発。とても子育てどころじゃなくなり、1ケ月間、入院します。

 

その頃は、息子を夫の実家に預け、私は隣の家に住んでいました。夫の両親は息子の面倒は見てくれましたが、私の方は受け入れてくれません。「病気のことは、誰にも言うな」とも言われました。精神障害について、まだ偏見と差別が強い地域だったんですね。

 

子育てについてさえ行政の支援制度が、何もない所でした。保健師の訪問もファミリーサポートもないばかりか、ベビーシッターもいない。それが全部揃っている隣の市にも問い合わせましたが、「市民以外はダメ」と断られ、本当に孤立無援の状態でした。

 

「家庭」から逃げて、働くことに没頭

それでも2歳半ぐらいから、保育園の一時保育を利用し始めて、3歳から保育園に通えるように。ですが、私は、言葉も文化も違うママ友の輪には入れず、そのうち息子まで仲間外れにされてしまいます。

 

この頃は、もう育児から、逃げたくて逃げたくてしょうがない。鬱の時は、夫の実家に息子を預け、ひたすら寝込みました。躁の時は、東京の実家に帰って息子を母に預け、1人で出かけてしまうこともありました。育児が楽しめず、息子と触れ合う時間も少ない、本当にひどい母親だったと思います。

 

息子が保育園の年中になるとき、私に塾講師の仕事の話が来ました。家で1人いるのが耐えられなかったので、すぐに飛びつきます。同時に、保育園でいじめられていた息子を、幼稚園に転園させました。そこでも馴染めず、またいじめられてしまいますが…。とにかく、息子が帰宅する頃に出勤して、息子が寝てから帰宅するような生活を送ることに。

 

息子が心の変調を見せ、不登校に

息子が小学校に上がってからも、仕事は続けていました。それで精一杯だったので、小学校の支度や連絡帳まで手が回りません。息子に忘れ物が多くなり、先生からよく注意されました。

 

2年生になると、厳しくて有名な先生が担任に。漢字の書き取りが宿題に出されますが、次第に息子が嫌がり始めます。無理にさせようとすると、ものすごい癇癪を起すので、「何かおかしいんじゃないか」と思い始めました。児童精神科に連れて行くと、自閉症スペクトラムとADHD(注意欠陥・多動性障害)、ID(知的知能障害)の症状があると診断されます。

 

当時、発達障害の知識はほぼなかったのですが、「これは大変だ」と感じ、息子が3年生になると仕事を辞め、家庭に戻ることに。いきなり週5の仕事がなくなったので、今度は私が激しい鬱になってしまいます。朝、息子を、学校に送り出すこともできない。彼の方は、学校でいじめられてしまい、休みがちとなり、やがて不登校になりました。

 

義父母はどちらも教師で、夫も高学歴だったこともあり、3人とも執拗に息子を登校させようとします。息子も、学校に行けず、勉強ができない自分を「ダメだ」と自身を責めるように。そして、「学校に行かなくてもいい」とかばう私を、他の家族が責めることに対して、息子はひどく怒っていました。

 

親の発作を、せいいっぱい気遣う幼な心

この頃、私は、感覚過敏による発作を頻発します。症状の一つである触覚過敏では、足が床に触れている状態が我慢できません。手をはじめ、体の他の部分が、何かに触れてる感覚も嫌。宙に浮いていることはできないので、のた打ち回わりました。また、聴覚過敏なので、車で移動販売するパン屋さんが鳴らすスピーカーの音声が怖くてパニックに陥り、泣き叫ぶことも。そんな時、息子は背中をトンと叩いてくれたり、薬と水を持ってきて「大丈夫、大丈夫」と声をかけたりしてくれました。

 

でも、ある日、息子は、何か困った顔をして、ため息混じりにもらしたんです。「もう、心配しすぎて、疲れちゃったよ」と。私は、大変なショックを受けて号泣しました。誰が好き好んで、幼い息子に心配なんてかけるでしょうか。発作は、自分ではどうしょうもないことです。もう生きているだけで精一杯で、子育ても家事も、何もできない…。

 

息子も相当なストレスだったと思います。やがて、「死にたい」と言い始めました。「死にたい、母ちゃんのせいだ!」と、毎日毎日そう言われ、私は打ちひしがれました。

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