ヤングケアラー支援は、「家族まるごと」で

ヤングケアラー
「『死ぬ』と言うのをやめよう」

夫も、こんな家庭事情と、職場のパワハラが相まって、鬱病を発症します。夫の両親は、夫の病気も、息子の不登校も、私のせいだと責めました。家族みんなに責められて、本当に辛くなって、もう耐えられない。そんなに悪いのであれば、いなくなった方がいいんじゃないか。そう思い詰めてしまい、車に乗って家出します。

 

高知から徳島の方まで走りました。途中で何度、吉野川に車ごと突っ込もうと思ったかしれません。でもその度、どうしても息子の顔が浮かんで、できませんでした。5時間ほどして携帯の電源を入れたら、警察につながり、やがてパトカー2台に囲まれ、連れ戻されます。

 

その夜、お風呂で息子が言いました。「お互い、もう『死ぬ』って言うのをやめよう」と。そして、指切りゲンマンしました。以来、息子が私を責めることはなくなりました。私も、この子とちゃんと向き合って生きようと思うようになり、初めて育児に前向きになれたんです。

 

小学4年の時、不登校の息子に、スクールカウンセラーから、県の「心の教育センター」を紹介されました。週に1回1時間、息子と私と別々にカウンセラーがついてくれたのです。息子は、初めて外で「信頼できる大人」と出会えたのではないでしょうか。私の方は、カウンセラーに、息子の話を聞いてもらうことができました。家で一日中顔を合わす日々だったので、息子と一時離れ、安心して過ごせる時間ができたことが、何より嬉しかったです。

 

「俺が母ちゃんを守る」

小学5年生の頃です。私と夫との間が冷え切って、離婚の話が出ていたほどでした。私は息子に、夫の愚痴ばかりこぼして。夫の方も鬱がひどくなり、持病の椎間板ヘルニアも悪化して辛かったようです。家では私と喧嘩ばかりして、いつも怒鳴っていました。それが息子には、夫が私を一方的に責めていたように感じたようでした。

 

私が寝込んでばかりいるので、義母が家族の夕飯をつくっていました。しかし、夫と息子の分だけで、私の分は用意してくれません。息子は心配しますが、聴覚過敏のために、義母が私にあびせる小言を逐一自分の部屋で聞いていて、それも耐え難かったようです。

 

同じ頃、東京にいる実母も認知症を発症し、夜中も構わず電話してきて、攻撃的な言葉で私を非難します。母を含む私以外の家族が、学校に行かない息子と、学校に行かせない私を責めました。

 

そんな私を見て言ってくれた息子の言葉が、「俺が母ちゃんを守る」でした。彼は、強迫性障害を発症し、鬱や不眠の症状もひどくなっていました。私の睡眠薬を勝手に飲んだり、1日中部屋に閉じこもってゲームをしたり、YouTubeを見たり。そんな状態の子が、私を気遣う言葉をかけてくれたのです。お互いが必死に支え合って生きていました。

 

息子は、だんだんと「学校のものは汚い」と感じ出し、それが高じて、「外のものはみんな汚い」「他人のものは汚い」という感覚になってしまいます。外出することや、1人になることを嫌ったので、「心の教育センター」に行く以外は、母子とも、引きこもる生活に。

 

これが1年続いたので、もう耐えられなくなります。私は、夫を残して、息子と2人で東京の実家に暮らすことに。もちろん私の意志だけでなく、何度も話し合いを重ねて、息子の意志も聞いた上でのことです。彼も閉そく感を抱いていましたし、関係の悪化していた夫も同意してくれました。幸い息子は、不登校児を受け入れる東京の中学校に合格し、転校できました。

 

私を助け癒してくれた、息子のおじや

息子が中学1年の時、認知症の私の母と同居したのですが、大変なバトルになってしまいました。母は息子のことが理解できず、息子は母のことが理解できない。息子は母と「同じ空気を吸えない」と言って、2階の部屋に鍵をかけて閉じこもったり、逆に1階の部屋に母を閉じ込めたりしまた。母は逆上して暴言を吐いて、扉を割るほど激しく叩きました。息子も応酬の言葉をぶつけ、いくつか家具を壊しました。でも後になって息子は、そんな自分を恥じ入ります。自傷行為もみられるようになったので、私は「もうこれはダメだ」と判断。別居を決意しました。彼が中学2年生の時です。

 

別に部屋を借りて、家賃を払わなければなりません。そのため、仕事を週5日に増やし、朝から晩まで働きました。仕事から帰ってくると、疲れ果てて動けない。よくテーブルに突っ伏して、死んだようになっていました。当然、夕食の準備もできない。すると息子が「お疲れさま。しんどいね」って、声をかけてくれて、よくおじやを作ってくれたんです。どれだけ嬉しかったか。どれだけ、疲れた心と体を癒してくれたか分かりません。その味は、今でも覚えています。

 

結局、母はグループホームに入り、私たちは実家に戻りました。今に至るまで、ここで息子と2人で暮らしています。

 

第三者に、「家族丸ごと」支えてもらう

私は、中学校の先生に、自分の病気をカミングアウトしました。母のことも全部話して、助けを求めたのです。校長先生と担任の先生が、何度も何度も面接をしてくれ、電話やメールでも相談くださり、本当に家族丸ごと支えてもらいました。初めての体験で、とても心強かったです。

 

また、学校の保護者会や不登校児を持つ親の会に行くようになり、同じ悩みを抱えるママ友とも出会えました。そのつながりは、大きな心の支え、大きな学びになりました。

 

現役Vtuberとして居場所づくりをする息子

息子は、高校もいったん中退しました。今は通信制高校で頑張っていて、なおかつ現役Vtuberとして活躍しています。自分が不登校で苦労した経験から、メタバース(コンピュターの中の仮想空間)に、不登校児を引き込む居場所をつくる活動をしています。さらに、その活動を中心とした事業で、起業も検討中。ヤングケアラーには、支援者になりたいという人が多いと聞いていますが、息子もそのようです。居場所を作るという活動も、私がやっていることと同じなので、嬉しく感じています。

 

ここ数年、私の症状も安定しています。落ち着いて家事や仕事ができるようになり、息子に負担をかけることも減りました。具合が悪いとき、「レンジでチン」のおかずで済ますときもありますが、息子がそれに文句を言ったことは一度もありません。むしろ「いつも感謝してる」と言ってくれます。

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