ケアラーが、世界を変える

ヤングケアラー

ルポvol.28 【ヤングケアラー3】

 

青空が広がる学校の屋上。「私、本当は、どうしたいんだろ?」と、高校生の陽菜(ひな)はポツリ言う。彼女の葛藤に気づき心配する親友に、初めて本音をもらした瞬間だった。心解き放つように、鳥が羽ばたく…このシーンがとても好きだ。

 

ヤングケアラーの日常を繊細に描いた短編映画『陽菜のせかい』(監督・脚本/佐藤陽子)を観ると、その心のうちがリアルに伝わってくる。主人公は、家では自閉症のある兄の世話をしている。息子には「自分が必要だ」と言いながら育児に専念する母との関係に縛られ、一方で「自分だけが家族から離れてはいけない」と思い、自由な未来を描けず、悩みを周囲に打ち明けられない…。

 

映画『陽菜のせかい』で、ヤングケアラーの実像を

この映画の元になるのは、映画を企画した一般社団法人ケアラーアクションネットワーク協会(CAN)代表理事・持田恭子さんの実体験である。ダウン症のある、2歳年上の兄を世話した元ヤングケアラーとしての思春期の思いが凝縮。同映画は、「家族がケアを抱え込まなくてもいい社会づくり」を目指す映像制作プロジェクトとして、クラウドファンディングで資金を募って実現した。2021年12月18日に、CANが運営する「ケアラーTube」で無料公開されて以降、約20万回以上の再生回数に達している(2022年3月14日現在)。

 

持田さんの活動は、1996年に設立した「ダウン症児・者の兄弟姉妹ネットワーク」の開設から始まる。その後、父を看取り、母の在宅介護と兄のケアが重なった「多重介護」を経験。仕事も両立させるハードワークの中、2013年、CANを設立。家族を無償で世話するケアラー同士がつながり気持ちを分かち合い、情報を共有し合う仕組みが必要と強く感じたからだ。そして、兄弟や姉妹の面倒をみる「きょうだい」を中心にケアラーを支援。2019年11月には一般社団法人化した。

 

「ダウン症のある兄に守られていた」と気づく

小学生の頃、父親が障害のある息子の将来を悲観してアルコール依存症となり、母親もワンオペの育児に疲弊してうつ病に。以降、持田さんは、家族の世話に明け暮れる。しかし、25歳の時、イギリスの金融情報サービス企業への就職を決意。「私たちを捨てて行くなら親子の縁を切る」と迫る母に、「私は自分の道を自分で選びたい」と告げ、未知の世界に飛び立った。

 

2年後、ヘッドハンティグされて日本にある外資系企業に転職し、帰国すると、母親と和解。やがて父親が病に倒れてしまう。

 

父親が亡くなる直前、ショートステイに向かう兄が病床の父に言った。「39年間、ぼくをそだててくれてありがとうございました。ぼくは、だいじょうぶです」。親指を立てる仕草をすると、昏睡状態だった父が一瞬目を開け、親指を立ててほほ笑んだ。数時間後に息を引き取る。パニックに陥るからと反対する母を押し切り、持田さんは電話で父の死を兄に報告。すると兄は、「2人が泣いてないなら、僕は泣きません」と悲しみをこらえ、母と妹をむしろ気遣った。翌日帰宅して兄の連絡帳を開くと、「電話を切った後、職員と抱き合って号泣しました」と書かれてあった。そのときの兄の優しさに、「守られていたのは、実は私だったんだ…」と、持田さんは気づく。『陽菜のせかい』の後の、長い道のりを経てのことだった。

 

合言葉は、「ケアラーを、チェンジメーカーに。」

CANの活動は、今まさに悩み迷うヤングケアラーたちに寄り添うこと。「ケアラーを、チェンジメーカーに」と、子どもたちの背中をどんと押す。そんな活動内容、ヤングケアラーの想い、映画について、持田さんにうかがう。かつての「陽菜」は、今の「陽菜」たち。共に、世界を本気で変えようとしていた。

 

※参考資料/CANホームページ、『女性自身』2021年4月6日号

 

(持田恭子さんインタビューは、2021年11月19日、足立区内の喫茶店にて行いました)

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