「自分」受け入れ、人の哀しみ抱く

ヤングケアラー
統合失調症の父の怒鳴り声に、おびえた子ども時代

大学で心理学を学び、相談支援専門員や精神保健福祉士などいろんな資格を取得する一番の

きっかけは、お父さんです。おそらく統合失調症だったんですね。

 

私が3歳のときに、もうすごい症状が出ていて。「会社が燃えている」「歩いている人は、みんなオレを狙っている」と言うわけです。夜、ご飯を一緒に食べていて目が合うと、「なんでオレのことを睨んでるんだ!」と急にどなり、箸を投げられる。「お父さん、怖い」と、どうしても思ってしまう。だだ、家族に手をあげるということはありませんでしたが…。

 

父は、勤務先で研究職をしていて、とても多忙でした。睡眠時間がなく、それで心を病んでしまったようです。自分でもどうしょうもない状態だったんだなと。幸い、母が父に付き添い病院に通ううち、症状は落ち着きました。また母は、家でピアノ教室を開き、家計的にも支えたんです。父が勤めていた会社も理解がありました。服薬治療をしながらも熱心に働いたので、結果的には定年まで会社員として勤め上げまして。

 

さっき、私が「おそらく」統合失調症と言ったのは、父や母から直接聞いたことがないからです。小学校高学年のときかな。台所で、落ちていた父の薬の袋を見れば、「幻聴幻覚を抑える」「不安を鎮める」と効能が書いてある。病名は、「精神分裂病」(統合失調症の前称)でした。「あっ、お父さん、そうなんだ!」と。怖いだけじゃなく、優しいお父さんもいるし、一緒に遊んでくれるお父さんもいる。「なんで、こんなに違うの?」というのが、「あっ、病気だからなんだ」と。それで病気のこと、知っていきたい、まず知らなきゃダメだーって。

 

母を介して父に意思伝達。妹は果敢に言い返す

父の怖い顔つきは、深層心理に焼き付いていますね。表情が硬くなると、「怒られる!」「これ言っちゃいけない!」と、反射的に身構えてしまう。父は、「マユが、オレのことを怖がっている」と気づいていました。かっと怒って、ぱっと怒鳴ってしまうと、「ああ、怒っちゃった」と反省しているようでした。私も「お父さんもつらいなんだな」と、頭では分かっている。でも、やっぱりねぇ…手が震えて。どうしても、うまくかかわれない。たわいもない会話はできますが、進路や習い事をしたいなど大きなことは、「これ、お父さんに言っていいと思う?」と母を介してじゃないと伝えられない。

 

父の症状が出るたびに、母も「子どもにそんなこと言うの、やめて!」と泣いているのを見ました。「お母さんの力になりたい」という思いも募ってくる。

 

妹は、もともと気が強いので、「そんなに、怒鳴っちゃだめよ!」と、父に言い返せるんです(笑)。父の病気が一番悪化しているとき、母のお腹の中にいましたから、本当に怖い姿を知らないこともあるのでしょう。でも妹は私に対して、「マユばっかり、優しくして」という思いを抱いていたようです。「昔、怖い思いをさせたから…」と、父が私に気遣っていた面もありましたから。

 

子どもを強く束縛する、教育熱心な親たち

母も父も、私や妹の教育にとても熱心でした。「自由にのびのび遊んでおいで」というタイプではなく、管理的でして。「近くのコンビニに行ってくるね」という些細なことも、いちいち聞いて確認し、OKをもらわないと行く事ができない。でもそれが普通だと思っていました(笑)。

 

高校生になってから、両親ともに、子離れが大変でした。父は、「自分が娘を守らなきゃいけない」という思いが強く、私たちが外の世界とかかわるのを好まない。母も同じです。「お母さん、お母さん」と頼っていた子どもが、だんだん自分から離れて行くことが受け入れられない。だから、「友だちと部活で、残んないといけない」と連絡すると、「なんで? 早く帰ってきなさい!」みたいな。当時、PHSでしたが、5分おきに、「あんた、どこにいるの?!」「なんで返事しないの?!」とかかってくる。ほっておくと「家族を大事にしない証拠だ!」と、声を荒げる。母は、自分がハンドルを握っていないと不安なのです。鬱の傾向もありました。

 

学校にも家にも「居場所」なく、追い詰められた中学時代

いつも「お母さんのために力になりたい、喜んでもらいたい」という気持ちがありました。お母さんの期待に応えたく、私立中学受験をし、合格。でも学校がすごく厳しかった。もう、まいってしまって。今度は、「学校が怖い」となりました。

 

逃げ場がなかったです。親に対しては、自分が「いい子」でなきゃいけない。友だちにも過剰に気を遣うようになる。もし「マユちゃん嫌だ」と言われてしまったら、「人間的にダメだ!」という心理状態に。人の評価で、自分の価値が「0」か「100」に振り切っちゃう。いじめられた子にも気遣うので、ついにクラスメイトに「いい人ぶってる」と言われて…。

 

学校にも、家にも、居場所がない。「私どうすればいいんだろ? 本当に生きてちゃダメなんだぁ。もう、死んだ方がいい」と思い詰め…タオルを首に巻いて、キュッとやろうかな、というところまでいったんです。でも、悔しいなと…なんだろ…「ダメだダメだ、これやっちゃいけない!」 と。それで不登校になり、結局、地元の中学校に戻る選択をしたんです。

…お母さんですか? 「はーっ」と深いため息をついていましたね。もう本当に中学時代は、思い出が真っ暗でした。

 

臨床心理士の先生の一言で救われ、目標もできる

不登校になったときは、すごく吐いたりもして。「学校に行こう」と思っても行けないし、ずっと泣いてて。それで小児科に受診したんですね。「心身症」と診断されました。病院では、臨床心理士さんにいろいろ話せたんです。すると「いいんだよ、ありのままで。マユちゃんは、マユちゃんでいいんだよ」って、ポンと言ってくれて。すごく嬉しくて…。

 

それがきっかけで、自分と同じような不登校の子に寄り添う仕事がしたい、大学で心理を学びたいと決めたんです。

 

はじめ、お父さんは、「他の学科に行きなさい!」って反対でした。心理学は心の動きを見たり、自己分析したりするので、また私の状態が悪くなるのではないかと心配したんです。でも最終的には、「やりたいなら」と許してくれました。

 

家族ごと受け入れる「精神保健福祉士」の道を見出す

大学の心理学科に入り、心理に関するいろんな人の考えに触れました。大きかったのは、自分が子どものときに苦しんだことは、自分だけじゃなかったと分かったことです。

 

当初は、スクールカウンセラーを目指していましたが、方向転換して、精神保健福祉士の道へ進むことに。大学の実習では、幼児相談室、児童相談所、少年鑑別所、公立中学校、精神科病院など、さまざまな現場に足を運びました。そのとき出会った精神保健福祉士の方が、「支援する精神障がいをもつ本人のご自宅に自ら入り、本人を含む家族にアプローチしていくのが仕事です」と教えられたとき、「あっ、これだ」と。心理カウンセリングのような「待ち」じゃなくて、「行く」ことでその人を丸ごと理解することが、腑に落ちたんです。「私も、本人の世界に入らせていただいて、一緒に伴走したい」という明確な道筋が見え、大学卒業後、精神科クリニックの医療事務をしながら学校へ通い、精神保健福祉士を取得しました。

ちなみに、精神保健福祉士を目指したいと思い、取得するための情報を集めていた頃、「やっぱり、この仕事がいいじゃないか」と言ってくれたのは、母より父が早かったんです。パンフレットを持ってきてくれて、母から渡させて。意外でした。「えっ?!お父さんが…」と。

 

仕事をするようになったとき、初めて自分で自分を褒めることができました。大変なこともたくさんあるけども、充実してたし、楽しかった。やっと自信を持つことができたんです。そんな体験があって、子どもにとっての「就労」の大切さにも目を向けることができ、相談支援専門員としての仕事にも役立てています。

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