「学校」を、変えませんか?

学校

<インタビュー・宮島絵里香さん>

勉強嫌いだった少女時代

小学1年のとき、算数の授業になるとお腹が痛くなっちゃう。毎日、その時間は、保健室で過ごしていました。お医者さんからは、「神経性胃炎」と診断されます。 やりたくないことをやる意味が分からず、ずっと勉強しない。でも、目立つのが好きで、学校行事は熱心に取り組みます。中学生になると生徒会長もやる。その頃からタスキをかけて演説し、選挙していたわけです(笑)。だから内申点がすごく高くて、勉強しなくても進学校に行けました。

 

「教師」か「アーティスト」を目指す

中学3年からギターを始めてバンド活動するなど、常にやりたいことをやってました。だからか、「行きたくない」「勉強したくない」という子どもの気持ちが分かる大人が、学校に1人でもいたらいいのにと思ってしまう。それで教師になろうと、教育学部ではトップだと思った早稲田大学を無謀にも目指します。もう一つの道として、人に聞かせたいと思える歌が1曲でもできたら、音楽をやっていこうと決意。両方にアクセルを踏んでいく。

高校卒業前、予備校に通っていた頃、その1曲ができたんです。思春期でしたから、あまり会話もしなかった頑固な父親の前で、「この曲で、音楽の世界に進みたい」と、畳の部屋で歌いました。「もう一回歌え」と言うのでそうすれば、「お前、ギターうまくないだろ。音楽学校へ行け」と。「あっ、許してくれるんだ!」と思いまして。予備校まで出してくれたのに、ありがたかったです。

10年追いかけた音楽の夢

音楽の専門学校で学び、割とスムーズにインディーズ(独立系の事務所)からCDを出すことができました。このまま勢いに乗ってメジャーに行き、絶対音楽で食べていくぞと思っていたんですけど、一向に売れる気配がない。超えていけない感じがあって。

25歳のときに、今の夫と付き合い始めました。彼はダンサーで、互いに好きな道を頑張っていました。でも、結婚前か26歳のとき、夫が「ダンスだけじゃ、食べていけない気がする」と言い出したんです。「鍼灸師になって、体のことを知りたい」と。そういう相方を見て、「メジャーに行けないなら、自分も何かしなきゃ」と思ったんです。

ジブリのアニメ映画『おもいでぽろぽろ』(1991年、高畑勲監督)を見て、田舎で人生を考えるのもいいなと。結婚後ですが、北海道に行き、住み込みで農業をやりました。「これからの人生どうしようか」なんて思いつつ、広い大地で土を触っているうちに、「高校のときに、教員か音楽かって迷ってたな」と思い出したんです。「じゃあ、教員をやってみよう」と帰省することに。貧乏だったので、ギターやアンプなど、すべての機材を売り払って学費をつくり、東京未来大学の通信教育課程で学ぶことにしました。音楽の専門学校を卒業していたので、なんとか2年半で小学校教員免許がとれたんです。

 

教員に採用され、乙武洋匡氏の「杞憂」を実感

それからすぐに、住んでいた杉並区の小学校で、教科担任(専門教科を教える。2022年度4月から、文部科学省が小中高校に導入)の教員として採用。受け持ったのは、あの大嫌いだった算数です。勤めた学校には、タレントで作家の乙武洋匡さんが、かつて教員として働いていました。教員を目指していた学生の頃、教員時代の乙武さんのインタビュー記事をたまたま読んでいて、「職員室は、杞憂に満ちている」という彼の言葉が印象に残っていました。実際、小学校の教員として働いてみて、「このことか!」と思い当たるわけです。

小学校の教員って、「子どもたちと楽しい時間を過ごしたい」「面白い授業をつくって子どもたちを喜ばせたい」といった気持ちでこの仕事を選ぶはず。それが全然できない。授業をつくる時間がないからです。子どもが帰って職員室に戻ったら、書類づくりや会議、研修に追われて、勤務時間内に明日の授業の準備はできません。業務を終えるのに、毎日、夜9時までかかっていました。

 

特別支援学校で障害児の「天才」に驚く

公務員となる教員採用試験は、特別支援学校で受けました。無事合格し、特別支援学校の教員として東京都で正式採用。実は学生時代、小学校の特別支援学級で先生を介助するバイトをしたことがあります。知的障害の子どもたちが描く絵や工作を見て、「なんだこの才能は! 天才だ!」と驚いて。確かに生活に困ることはたくさんあるけど、彼らがそのまま育っていけば、めちゃくちゃいいものをつくる気がしました。このすごい感性をつぶさない、伸ばすような仕事がしたいと思ったんです。

彼らは読み書きができず、勉強もしない。電車好きだったら電車に関することなど、自分の興味があることしかやらない。教員は、子どもたち一人ひとりに合った教材をつくる必要がありますが、ここでも業務が多すぎて準備する時間がないわけです。でも、みんなそれが普通だとしている。

 

教員たちの「常識」と、ことごとく衝突

これは、後での経験も含めて思うのですが、学校の先生たちって、たいてい小中高大学まできて、そのまま教員になってる。学校が割と好きで、「私たちがやってきたことを、そのまま次の世代につないでいく」みたいな考え方の方が多い。学校の常識に違和感を感じたとき、「えっ、おかしくないですか?」と指摘しても、「何言ってんの、お前」みたいな。例えば、私の考え方では、教室から飛び出しちゃう子は、「自分は嫌だ」という思いを形にできてる。自分の感覚を大事にできることこそ「希望の光」なわけです。

学校では、先生という「権力者」、子どもという「従う者」の構造があります。圧倒的な力の差があって、子どもは、先生に気に入られるために、この場所で生きていくための生存本能で、褒められたい、怒られたくないと、無意識に判断をしていく。先生の考え方に、肯定的な子たちが認められていく経験を積むんです。「座れない子の思いを尊重してあげて」と私が言えば、先生たちは「この子の人生にとってよくない。あんな行動をしていたら、人に迷惑をかける」と、なんとしても座らせる。私も、ほかの先生も、「その子のためを思う」という一点では同じなのですが…。

 

出産後に退職し、シュタイナー教育を学ぶ

その頃、第1子を授かります。当時の長時間勤務では、学校の仕事と子育てを同時にやると、どちらも中途半端になる。すごく迷ったんですけど、退職することに。

一方で、自分の子どもが育っていく様を見て、「子どもの学び」に対する考え方が大きく変わりました。子どもって、こんなに勝手にいろいろなことを吸収して大きくなっていけるんだって。やっぱり私も大人として、「分かるようにしてあげなきゃいけない」「教えてあげなきゃいけない」と、どこかで思っていたことに気付きます。子どもが思いのままのびのび育っていくには、その環境さえつくってあげればいいと。

子どもが1~2歳になった頃、育児の合間に「たのしい算数教室」を無償で実施。算数に苦手意識のある子どもたちに個別指導しました。

同時に、シュタイナー教育やモッテソーリ教育といった、いろいろな教育法の勉強も始めます。今の公教育は、子どものためになっていないのではと思ったからです。これだけ社会や時代が変化していったのに、学校教育ってまったく変わっていない。いまだに暗記させたり、知識のインプット型で、考える力、学ぶ喜びを奪っていくというか。その子が「やりたい」と思ったことを突き詰めてやっていければ、必要な知識やスキルを自分から求めて、その時その時で吸収していく。こちらの学び方の方が、効率が良いような気がして。

今の公教育は、学習指導要領があるおかげで、僻地でも都会でも、どこにいようが同じ内容が学べるよう保証されている。これは利点です。どの教育法にも一長一短がある。だからいろいろな教育の在り方があって、もっと多様化していくべき。正解はありません。その子に合った教育法を選べるのが理想です。

 

小学校勤務の初日、「宿題は出さない」と宣言

子どもが3歳のとき、幼稚園に預けられたので、私が生まれ育った足立区内の小学校教員になりました。産休代用教員として年度途中での採用です。これまでインプットしたことを生かして、授業をもっと面白くし、いろんな機会を子どもたち与えたいと意気込んでいました。

初日に衝撃的だったというか。私が子どもの頃の学校の在り方とは、だいぶ変わっていたんです。足立区の小学校は、学力が東京23区中、ずっと23位か22位。そこで「学力向上」の波が来て、足立区独自の教員研修や学力テストが実施されていました。「学力向上の時間」が増やされ、朝の時間や昼休み後、10分間の課題をこなす授業が行われるように。宿題も多くなっていた。私、絶対、宿題は出さないと決めてたんです。学校側へそう言ったとき、「宮島さんのクラスだけ特別扱いはできないだろう」と。

 

「子どもたちのための授業」ができない

働いてみて、やっぱり教員に余裕があまりにもない。雑務に追われているから、結局、授業をつくる時間すらなく、教科書をなぞることしかできない。しかも、「今日はここからこのページまで」と決まっている。時々、隣のクラスの先生が見に来て、「宮島先生、今日1日早いところをやってますよ、大丈夫?」とツッコミが入る。もうガチガチなんです。子どもたちに、こんな楽しい授業をやってあげたいとか、もう夢物語というか。

私は、年数の浅い教員だったんで、足立区独自の研修で、区内の定年退職した校長先生たちが、授業を見に来る。勝手に見てくれればいいのに、「指導案」を書かなきゃいけない。ようは授業のシナリオで、「学習指導要領のこの部分にあたる知識の理解を、今回の授業で進めます」といったもので、まとめるのにとても時間がかかる。これじゃ元校長先生のための授業で、子どもたちへの授業じゃない。授業の後、退勤時間まで説教されたこともあります。もう本末転倒じゃないですか。

学校の業務には、「おかしいところ」が超たくさん。教員たちが担っている事務作業の中で委託できるものはたくさんあるのに、教員の働き方が問題視されるようになってからも、なかなか業務にメスが入らない。役所と同じで、教員間のやり取りも未だに判子を介すものばかり。

学校の「壁」は厚く、外の世界とかけ離れています。昭和の時代のような事務作業をしている大人たちが、ICT(情報通信技術)とか、インターネットの授業など始めたところで、豊かな学習の機会を作れるわけがない。でも、中から学校を変えて行くことは、絶対にできないと感じていました。

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