「写真」で、トラウマ乗り越えて

アート

ルポvol.44 【アート】

顔を真っ赤にした男が、「開けろ! 開けろ!」と、ドアを拳で何度も殴る。酒気を帯びた赤い目を、正面から睨みつけて仁王立ちするのは、高校生の「兄」。うなって互いは相手の肩をつかみ、取っ組み合う…。「そんなに大きな声を出さないで」と、思わず注意した講師の声で、はっとする。「酔いどれの父」は後藤勝さん、「家族を守る兄」は現役ケースワーカーに、姿を戻す。

 

ワークショップ劇で、後藤さんの顔に現れた「亡き父」

ここは、「コネクトリンク勉強会」が開催されるポルテホール4階講義室(足立区六月町)。「機能不全家族」がテーマの講演会で行われたワークショップ劇には、もちろんセットもない。だが、あまりにもリアルな感情表現に、会場がしんとした。架空の「父」「兄」ほか、「母」「弟」「支援者」などを演じたのは、たまたま出席していた受講者たち。日頃、依存症者にかかわり、実際を知る支援者たちだからこそ、思わず出た凄味だった。

 

劇の後、自身の父親が、アルコール依存者であったことを告白する後藤さん。ごく簡単に自己紹介されたが、その中身が簡単でない。元戦場カメラマンで、現在もメディアの第一線で活躍する写真家。そして、NPO法人「山友会」の相談員として、かつてのドヤ街・山谷で、元日雇い労働者、身寄りのない人たちを支援されているという。「依存症の父」「戦場」「写真」「山谷」が、深い水脈のようにつながっているのだろうと思う。

 

元ドヤ街・山谷の「おじさん」との写真プロジェクト

翌日、「『山谷・アート・プロジェクト』のイベントに来ませんか」と、メールで案内を受けた。後藤さんが中心となり、2015年に結成された山友会・写真部の活動である。行ってみれば、山谷の「おじさん」(同会では、つながった人たちを、親しみを込めてそう呼ぶ)たちが撮影した自由奔放な作品群が、まさに強烈だった。

 

活動は、山谷にとどまらない。2000年に設立した「リマインダーズプロジェクト」(墨田区)では、国内外の写真家を育成。最近では、相談員の田中健児さん(vol.39、山谷で支援活動するNPO法人友愛会に所属)の誘いで参加されたNPO法人Y-ARAN(横浜依存回復擁護ネットワーク)で、依存症から回復を目指す参加者の人を、後藤さんが大判カメラで撮影をするプロジェクトを立ち上げる。Y-ARANのイベントでもお会いし、親交が重なった勢いで、改めて取材を申し入れた。

 

戦場カメラマンが垣間見た「死」が、「今」とどうつながるか

その準備で、戦場カメラマン時代の写真を見ると、凄まじさに身がすくむ。戦争に引き裂かれた無残な死体が累々とある。なぜ、これほどの暴力に、写真家は身をさらしたのかと。戦後のカンボジア、エイズ病棟をとらえた写真にも、「悲惨」が刻印されていた。ただ違うのは、死に面した女性のカメラを見つめる表情が、穏やかで美しかったこと。質問メモに、「死」というキーワードを加える。

 

インタビューは、山谷の山友会の事務所2階で行った。宅配業者のチャイムで話が中断もする慌ただしい部屋だが、一面の壁沿いに遺影がひっそり並ぶ。100人分はあるだろうか。かつて山友会に身を寄せ、物故した「おじさん」たちである。背後に佇むその大勢の霊たちと、後藤さんの話を聞いている、という不思議な感覚にとらわれた。

 

かつて後藤さんは、戦争や震災を潜り抜けた子どもたちへの写真プロジェクトも行っている。今後は、子どもたち、特に家庭環境が苛酷だったり、心に傷を負っていたりする子たちにカメラを手渡し、何かをつかんでほしいと考えている。

 

(聞き手・ライター上田隆)

 

(後藤勝さんのインタビューは、2023年2月22日、山友会の事務所にて行った)

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