「写真」で、トラウマ乗り越えて

アート
父が家出し、残された母と暮らした子ども時代

実家は名古屋です。僕が小学校に通っていた頃、父親がだんだん家に帰って来なくなり、お酒を飲む姿を見ることが増えまして。中学生のとき、担任の先生に「ちょっと来い」と呼ばれて、「お前んとこの両親、離婚したんだって」と。僕より先に、担任が知っていた。母親もあっけらかんとしていて、僕に話しても理解が難しいからと、言わなかったようなんです。

 

低所得者向けの団地に住んでいました。確か家賃が何千円で、部屋が2つ。地方から生活に困った人たちがたくさん来て住むので、問題のある家庭が多かった。父親が飲んで暴れようが、親が離婚しようが、「お前んとこもか」みたいな(笑)。借金取りのヤクザが来たりするのが当たり前の風景。そんな環境だから、僕もそんなにビックリしなかった。後で父親が出て行った理由も分かるんですが、当時はまだ子どもでしたし。

 

高校中退後、沖縄に暮らし、「戦場カメラマン」を目指す

17歳で家を出て、沖縄に行ったのは、いろんなことが重なってます。中学の卒業旅行で下関にいた兄と訪れたのですが、「沖縄は、海がきれいで面白くて、住みたいなぁ」と。高校を中退したので母をがっかりさせましたが、一方でアメリカに行きたいという気持ちも抑えがたくなった。沖縄には米軍基地がある。「運が良かったら、アメリカ行きの切符が手に入るかも」とアバウトに考えたんです。もちろん、戦争のことなんか興味ない。

 

現地のパブで働き始めまして、同じ職場の人の家に行くと、彼のおばあさんが、沖縄戦の体験を話してくれる。店に来る米軍兵も、「俺はベトナムにいた」「どこどこの戦場から帰ってきた」と話す。じわじわと沖縄の歴史や、世界で起きてる戦争のことを身近に感じ出す。

 

「ベトナム戦争って、何なんだろう」と興味がわいて、自分で調べてもみる。戦場カメラマンのロバート・キャパ、沢田教一、岡村昭彦の写真に出会い、ショックを受けました。ベトナム戦争で活躍して、亡くなった人たちです。この人は違いますが、エディー・アダムスが撮った、ベトコンの士官が路上で射殺される写真なんか衝撃的で。「何だ、この写真の力は!」と。そして、「戦争なんてダメだ! この悲惨を告発するこの職業、すごいじゃないか、やってみたい!」と感激してしまう。「高校辞めた自分なんて、この先どうしょうもない。別に学校に行かなくていいや」という強気の気分もありました。

 

ひとまずカメラをやろうと仕事を探したら、首里城の守礼門の前で、記念撮影のバイトを見つけました。大判カメラを使用していたので、撮影の勉強にはなりましたが、しばらく働いてるうちに、物足りなくなってくる。先輩がいて「プロのカメラマンになり、戦争の写真を撮るにはどうしたらいいか」と相談すると、3つの方法があるぞと。1つは、「東京の写真専門学校に行けよ」と。もう1つは、「有名なカメラマンに弟子入り」。最後は、「2つが嫌だったら、カメラを持って、現地に行くだけ行ってこい」。お金もないし、今更学校なんか行く気もない。ペコペコ人に頭を下げて、弟子入りするのも嫌。選択肢が、「行く」しかなかった。

 

それで上京し、朝から晩までレストランなどで、1日20時間ぐらい働きました。1年後、中古のペンタックスのカメラとフィルムをバックに詰め、クレジットカードなど持っていなかったので、貯めた100万円の束を腹巻に突っ込んで出国。お金は日本円なので、向こうで少しずつ両替しました。

 

グアテマラに滞在し、スペイン語を学ぶ

一番最初に行ったのは、メキシコの南隣のグアテマラです。あまりにもスペイン語が分からなかったので、ちょっと勉強してみようと。学校があって、みっちり3、4カ月やったら、結構話せるように。日本人にとっては、英語を学ぶより発音が楽なんです。ぶらぶらしているうち、南アメリカの北にあるコロンビアでの内戦を報道で知りました。人権擁護団体の人が殺されて、「世界で最も危険な街」らしい。「よし、もうそれしかない、行ってみよう!」と。

 

…度胸がある?…よく言われますが、違うんです。今だと、シリアであれば、何が起こっているかリアルタイムで分かる。ジャーナリストが首を切られたり、街にミサイルが落とされたり。その頃は、新聞かガイドブックぐらいで、詳細な情報が入ってこない。たまにテレビのニュースがある程度。コロンビアのことを、ずっと調べていたわけでもない。「ここまで来たら、日本なんか帰れない」という気持ちだけでした。

 

コロンビアの内戦で自覚した「何のために撮るか」

とりあえずバスで南下して、コロンビアに。僕は、ラッキーだったんでしょうね。いい出会いが次々にあったんです。一番戦禍がひどい街に行って、人権擁護団体に「ここで写真を撮りたい」と話しました。「実はちょっと前に、ここのカメラマンが民兵に殺された。仕事はあるけど、やればお前も殺されるかもよ」と忠告。あまり実感がわかなかったので「やる!やる!」と。すると近くの中国系のレストランを紹介されました。中国系三世のコロンビア人で、スペイン語しか話さない。でもすごくよくしてくれ、家で下宿させてくれ、いろんなアドバイスも受けました。

 

ここでは、「死」が日常化していました。朝から、顔を合わせた知り合いたちが、「昨日は、あいつが死んだのかぁ」なんて普通に話している。僕の仕事は、遺体の写真を撮って、家族に知らせるための記録をつくることでした。遺体が出ると、警察がぽっと持って行ってしまう。日本みたいにいちいち検死しない。どこに行ったか分からなくなる前に遺体を撮影し、写真をアルバムにして、団体の事務所に置く。家族が来て行方不明になった肉親を、そのアルバムを繰って探すわけです。

 

その仕事が、僕の原点なんです。「フォトジャーナリスト」というより、「記録」「ドキュメント」する者という自覚がある。今でも「ジャーナリズム」の世界になじみきれてません。僕の柱となっているのは、「何のために写真を撮るのか」ということなんです。「何のため」というのが、スタートした時から明確だった。

 

友人が殺されたトラウマが、心をむしばむ

一番こたえたのは、最初の案内役だったフリオという、まだ20代の青年が殺されたことです。彼は、左翼ゲリラの村の出身。「自分たちの置かれた状況を広く伝えたい」と、取材に協力してくれたんです。しかし、事務所の近くにあるコーヒーショップにいるとき、彼は突然、銃撃を受けました。銃声を聞いて駆けつけたら、血を流して倒れている。即死でした。その後、殺した側の右派民兵は声明を出して、「外国人のジャーナリストに協力しているゲリラのシンパであるフリオを処刑した」と。「外国人のジャーナリスト」とは、まさしく僕だったんです。

 

コロンビアにいた3年の間、15人だった職員も、最終的に3人になりました。行方不明になっり、殺されたり。人権擁護団体は、殺人の状況を写真とともに、国連などに報告していたので、恨まれていたんです。

 

だんだん精神的に参ってしまって。住んでいたゲストハウスに戻り、ベッドを入り口のドアに引っ付ける。寝ているときに、暗殺者が入って来れないようにするためです。お酒を飲んでも寝れなくて怖い。殺された仲間のことを考えただけで、すぐに涙が出て取り乱してしまう。精神状態が、正常ではなくなりました。

 

ニューヨークの真ん中で、PTSDを抱えて呆然と

それでコロンビアを離れ、ニューヨークに。日本食レストランで、アルバイトを始めました。当時、コロンビアの戦争は「汚い戦争」と呼ばれていて、誘拐や殺人は当たり前。道端を歩いていると、バイクで後ろから頭をポンポンと撃って、ぱっと逃げる。そんな現場をたくさん見てきたので、ニューヨークを歩いていても、後ろに人がいると身構える。精神的に不安になり、護衛用の大きなナイフをカバンに入れて待ち歩くように。

 

友だちがそんな僕を見て、「お前、ちょっとおかしい」と。ベトナムや戦地からの帰還兵を受け入れている施設に行き、コロンビアでの体験を話したんです。カウンセラーは、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)です。自身気づいていないほど、相当に参ってる」と診断。

 

2年くらいか…カメラをしまい込んで、戦争の写真も見ないようにしました。時々カウンセリングして、すべてを忘れようと努力。でも、すごく中途半端な気がした。そもそもレストランで働くためにニューヨークにいるんじゃない。まだ若かった…20代後半だったので。

 

カンボジアの激戦地で、「死に場所」探す

1992年、カンボジアの内戦が勃発したことを新聞で知りました。「僕には、やっぱりこれしかない」と、アパートを引き払い、カンボジアに行ったんです。

 

戦闘の現場に行って写真を撮り、通信社にネガを売っては活動を続けました。1枚100ドルから200ドルです。2年後、写真をまとめて出版しようと、またニューヨークに。

 

久々にカウンセリングに行っていろいろ話せば、カウンセラーは「写真を見せてみろ」と。見せると、写真では、みんなが地面に臥せっている。真横で人が撃たれて死んでいる。僕だけ、「すごいだろ」みたいな感じで突っ立って。「よくあることで、お前は死にたがっている。死に場所を探している」と、カウンセラー。「写真を撮るためだ。しょうがない」と答えると、「それがダメなんだ!」と怒られました。結局、僕のせいで亡くなった友だちのために、そんな気持ちに追い込まれていると指摘されました。まさしくそうかもしれない…。

 

中毒というか、アディクション(依存症)の症状と似ていますね。銃声が飛び交うひどい状況にいる人たちを記録して、自分の存在意義を見つける、みたいな錯覚に陥っていた。「戦争を撮る」ことに依存している。ニューヨークの五番街でシャッターを押しても、「自分の写真じゃない。そしてここは、自分の居場所じゃない」と空しくなる。それですぐに、カンボジアに戻りました。治療するというより、トラウマを地獄まで持っていかなきゃいけない、「背負う」というか、「宿命」みたいな感じで、何年かやってました。

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