アート×哲学で、「対等とは?」

アート

「受け入れること」と「好きになること」

鈴木/せっかくですから、OUCHIさんの理念を聞きたいなと。

水戸/ここは医療・福祉施設で、対象は患者さん、そして地域の利用者さん。福祉全般にいえることですが、「目の前にいる方のあり方をまずは受け入れて、尊重する」ということが一番大事な理念かな。「おもんばかる」という意味で、「相手の不自由さを、自分ごととしてとらえたとき、どんなサービスが提供できるのか考えられる職員に」と、いつも言われています。

鈴木/素晴らしい。

水戸/それは、職場の職員に対しても同じ。仕事をしていく上では、一緒に問題解決をしていくこと。昨日のミーティングでも話しましたが、「みんなでやる」というのは、「みんなで同じことをやる」ということではない。誰か1人が「これをやりたい」と思うことを、横にいる仲間が、ブラッシュアップするのを手助けして、実践するところまで押し上げていく。そういう関係性に、職員同士がなれたらいいなと。

鈴木/目の前の誰かのことを、自分ごととしてとらえる。まさに「汝の隣人を愛せよ」じゃないですか!

水戸/でも、相手を好きになる必要はないと思っています。「受け入れる」と「好きになる」のは違うこと。たとえ嫌いであっても、その人の人格を認めたり、行為や活動をリスペクトすることはできる。みんな無理に好きになろうとするから、いろいろ間違いが起こるのかなって。例えば、「納豆は体にいい」と分かっていてリスペクトするけど、食べれない。私は好きではないから、とか。

鈴木/和尚さんである大島さんは、仏教的に「対等」をどう思われます?

大島/マジッすっか!? 超気を抜いて聞いてたんで、答えられない!(一同笑)

岡井/「慈悲の瞑想」(日本テラワーダ仏教協会・スマナサーラ長老が指導)があるんですが、まず「自分が幸せでありますように」と唱え始めます。そして順々に、自分と近しい関係の人、最後に自分が嫌いな人も、同じように「幸せでありますように」と。

鈴木/人類みんながそう考えたら、本当に幸せですね~。

岡井/さっき「険悪な関係の対等」という話を聞いたとき、自分の嫌いな人たちに対しても、自分から話しかけていくのもありだなと。

鈴木/岡井さんの「嫌いな人」って?

岡井/… 私はどっちかというと一人が好きかな。本の中の人たち、また本を書いたその人に、親密さを覚えますね。生きている人もいるし、死んでいる人もいる。書き残した意志、思いが残っている文章を、贈りもののように受け取る。そうじゃないと、本は読めない。

 

「宇宙人」同士の親子関係

鈴木/(改田)友子さんは子育てをされていて、親子の「対等」について考えたりすることはありますか?

改田/ええ、もうしょっちゅうです!   娘は小学3年生で8歳ですから。他のお母さんを見ていると、「親と子は対等じゃない」ことが普通だととらえている人が多いなと感じます。そのことでお子さんは悩むかもしれない。でも、お母さん自身がそうやって親に育てられているから、同じ接し方しか知らない。以前は「そうじゃないよ」と伝えたいなと思いましたが、余計なお世話かなと。

鈴木/確かに。街中なんかで、一方的に親が子を叱るのを見て胸が痛くなる。やっぱり、私も何もしてあげられない。こうしてアートで伝えることしかできない。友子さん自身、「親子の対等」で心がけていることはありますか?

改田/私は、「私」という人生を生きている。彼女もそう。未知の2人が、たまたまこの世で知り合ったわけです。先ほど岡井さんが仰ったように、自分も「宇宙人」だし、相手も「宇宙人」。同じUFOに乗っているのは、2人が共にいることで、初めて成し遂げられることがあるからなのかと。「彼女は、何を考えて、こんな風にするんだろう?」「こう思うのはなぜなんだろう?」などと、いつも考えながらかかわっている感じですね。

鈴木/大好感です~。友子さんの子育てで、すごくいいなと思うのは、ちゃんとお子さんの意見を聞くっていうこと。「対等」の関係を築く「鍵」だと思うのですが、みなさんどうでしょうか? (岡井さんの顔を見て)あっ、苦い顔をしてる…。

 

「相手そのもの」を聞く

岡井/なんだろう…「言わないと分かんないでしょ」という人がいるじゃない。「言わなくても分かる」っていうことは、多分あると思う。

水戸/親にしたら言わせたいんじゃない? 子どもに「ごめんなさい」とか自分が求める言葉を。

岡井/子は、親が求める言葉を言えば喜ぶということをしゃべってるんです。

水戸/知恵のある子は「こう言えばいい」と分かるからいい。それが言えない子もいる。

鈴木/でも、親に、本当に聞く姿勢があったら、子は本音を言える気がする。

岡井/「聞く」というのは、「相手そのもの」を聞くことでなければいけない。

鈴木/そうです! 言ったことをちゃんと受け止めてくれるからこそ言える。言って怒られるんだったら言えない。

水戸/ですよね~。親子だからといって、信頼関係が成立しているかというと、そうじゃない。信頼関係があるからこそ、言いたくなるってことかもしれない。「愛情」とはまた多分別なことなんでしょうが。

岡井/仏教では、「愛情」は否定している。

鈴木/ええっ!?

岡井/愛情は「執着」。だからやはり、子は「預かりもの」として大事にしなきゃ。

水戸/愛されるより、愛する。信じられるかじゃなくて、信じる。そんな関係性にあるから、「何も言わなくて大丈夫!」みたいな。

鈴木/でも「愛情」が「執着」なんて、どうしよう?! 私、ぬいぐるみに対しては「愛情」しかない…(一同笑)。

水戸/それは執着ですよ。

鈴木/確かにこの執着を娘にやったら嫌がられるでしょう。

水戸/どこが分かれ道なんだろう?

岡井/対等は、やっぱり「距離感」。

 

子も、親のことを心配している

鈴木/水戸さんは、親子関係の対等で、何か気をつけていることはありますか?

水戸/私の子は、今22歳です。生まれたばかりのときは、初めて世界で一番、そして自分より大切な存在ができたと思いました。それこそ、執着に近い感情だったかもしれない。だけど、動き出して言葉をしゃべり出したら、全然価値観が違うことに驚くわけです。特に自意識が目覚め出す10歳のときには、それが圧倒的に。友だちとの関係性や、学校での過ごし方にしても、私の想像する姿や行動とことごとく異なる。そのつど、違いにフォーカスせずに、ただ「違うんだなぁ~」と受け止めていました。子どもを心配するのが親子関係と思っていたら、あるとき、それが思い込みだと気付いたんです。私と同じぐらい、彼女はいつも私を心配してくれ、配慮してくれてると。こんなちっちゃい人に「すいません」と思ってしまった。じゃぁ、心配されたりしないようにするためには、「私は元気で明るくなくちゃいけないな」って。

鈴木/なんか双方向性に愛情が…。「愛情」って言ってしまいましたけど。

水戸/「子どもは、いろんなこと考えてる」と、本とかで書いてありますが、本当にそうだと分かったとき、それこそ「対等」だと。お互いが同じ視点で向き合っている。子どもは、それを言語化できないだけ。

 

自分の感覚を信じる

鈴木/確かに言語化できない。「対等であるか、確認するすべがない」いう話をどこかで聞いたとき、そのことは結構ガツンときました。確認してみたいですよね。

岡井/確認してどうする?

鈴木/安心する…。

岡井/それって、感覚的なものじゃない? 確認するって。自分が感じたものを、「あっ、こういうものなんだ、こういう風にとらえればいいんだ」ということを、ある意味、習慣化していけばいいんじゃないか。

水戸/自分の感覚を、信じるみたいな。

鈴木/自分を信じる、いいですね。

水戸/難しいですけどね。自分ほど信頼できないものはないですから。

大島/そう思います。信用してないっす。

岡井/仏教の修業者が、ある人から「あなた、すごいことをやってるから、あなたのことを紹介したい」と言われると「この先、俺が何をしでかすか、分かんないよ」と。

鈴木/大島さんも修行されたんですね。精神を鍛える修行とかも?

大島/しました。一般の大学だったので、お寺に泊まり込みで、3週間の修行を夏に3回・冬に1回。数十人での共同生活で、お経を朝昼晩唱えるのと、座学をやりました。

岡井/とにかく、自分を信じるってところが、なかなか難しいんだよね、やっぱり。

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