アート×哲学で、「対等とは?」

アート

<座談会>

 

理想の「対等」を描いてみた

鈴木/今日は、みなさんにお集まりいただきありがとうございます(岡井さん、水戸さん、改田さん、上田に向けて)。

 

「対等」って、私の人生のテーマでもあって、結局どう考えても大事だなと。コミュニケーション、人間関係がうまくいかない根底には、「対等でないこと」が諸悪の根源にある。対等であればこそ、すべてうまくいくのではないか。そんなメッセージを込めて、今回の展覧会を企画したんですね。

 

「対等」を表現した私の5点の作品は、各々すべて半々の画面が、真ん中を境に接するように描いています。ちなみに過去に「対等ではない関係(ディスコミュニケーション)」をテーマにした展覧会を開催。その絵も、違う要素が向き合いますが、割合はアンバランスです。

この絵は、「紫」が「黄」を圧倒していますが、「自分の話ばかりすごい勢いでする人(紫)と過ごした人(黄)」を表現。

もう一方は、「考えを曲げない人(紫)」に頑張って合わせた人(黄)」というもの。

 

これらを描いてみて、「じゃぁ、対等って何んだろう?」と疑問がわいたんです。以来、「対等な関係」を考え続け、やっと理想のイメージを表現できたので、今回展示することにしました。どこまで人に伝わるのかなと。先日、岡井さんがいらしてご覧になり、即座に「それは難しいよ!」と言ってくださったんですね。ありがたいご発言だと思いました。それでぜひ、改めて岡井さんのお考えをうかがって、みなさんとお話しながら共有したいと、この座談会を設けたんです。

 

「枠組み」という基本

水戸/うちの若い者が、話を聞きたいと言うので…(神さんと根本さんが挨拶)。

鈴木/もちろん、どうぞ!

岡井/「対等」が成り立つためには、まず「枠組み」がないと。親と子、上司と部下、教師と生徒など、特定の関係性のことです。するとその枠の中で、例えば、知識の多い方と少ない方があるとする。前者は後者に「教える」必要が出てくる。その際、教師なら、「こいつは無知だから、教えてやろう」という態度で生徒に対するなら「対等」じゃない。しかし、「いかにすれば、自分が知っていることを、受け取ってもらえるか」と生徒を気遣うならば「対等」に。先日SNSにも書いたのですが、脳科学者の中野信子さんは、「私が正しい。あなたが間違っているから直しなさい」という人を「正義中毒」と呼んでます。今じゃネット上では、「正義中毒」という誹謗中傷が蔓延している。

鈴木/早速、深い話ですね。「枠組み」について、もう少し聞きたいなと。

岡井/「枠組み」とは、自分と他者のいることが前提となります。特定の関係性という「枠」の中で、自分という存在が、自分とは違う別の存在と向かい合っている状態をイメージしてもらえればと。

 

「親子の対等」が一番難しい

鈴木/いきなり「枠組み」とは!   岡井さんの話からいえば、私はこの作品を、「友だち」「職場」「親子」「パートナー」「国同士」という「枠組み」で各々描いたことになりますね。私にとって一番難しいのは、「親子」の対等なんです。

岡井/親子の対等って、すべての大人と子どもの2人の 関係と同じ。子どもは、自分に授かったものではなくて、誰かから預かったもの、もしくは「宇宙人」と同じ。そのくらいの感覚でないと。親が子を「自分のもの」と考えたときに、「自分の望むように育てたい」となる。よく「愛される者になりなさい」「人に迷惑をかけちゃいけないよ」と言い聞かせるでしょ。でも、子どもは別の存在だから、どう育つかなんて分からない。実際に子どもは、「人から愛されなくてもよい」と思っているかもしれない。本来、親は「愛される人に」というより、「愛する人になってください」というメッセージを送らないといけないかな。

鈴木/子どもを「誰かから預かったものを自分が育てる」という感覚と、「元々自分のものだ」と思って育てることは、全然違いますね。「自分のもの」と言うなら、何か支配関係になってしまう。

岡井/それは大きな組織においても同じ。職場の上司と部下、先輩と後輩の関係もそう。自分が先にいろいろ経験したことを、部下に教えると同時に、「自分を超えていってくれ」というぐらいの関係でないと「対等」とは言えない。

鈴木/そうなれば、素晴らしい関係ですね。

岡井/サッカーや野球などスポーツチームでは、お互いライバルではあるけれど、高め合うことで強くなる。お互い蹴落とす意識ではそうならない。

鈴木/親と子でも、高め合うことができたらいいですね。

岡井/親は、子どもが成長して、自分ができなかったことをやると、「良く育ってくれたな」と思える。しかし、それは親の力じゃないよね。

 

 「対等」と「平等」の違い

上田/人間には能力差がある。そもそも親と子では、圧倒的な差があります。「対等」と「平等」の違いって何でしょう?

岡井/「平等」は、一個人を人格のある「個」として扱っていないよね。集団の中の「一点」とし、その他大勢の点たちと同じに見なすことで、「平等」は出てくる。だから「平等」はすごく危うい。

鈴木/英語だと、「イコール(equal)」で、「平等」「対等」の両方の意味になる。日本語はちゃんと分かれているのがすごい。

水戸/「対等」は、何かもっと互いに主体性のあるアプローチな気がして。「平等」は、環境や関係性に大いに左右されてしまう。たいてい「平等」を訴える人ほどマジョリティ(優位な立場)側にいるのに、そのことには気が付いていない。平等ほど「不平等」なことはない。

鈴木/人と人との能力差は、まさに親子関係に感じます。体力的な強さ、語彙の多さ、経済力にしても、圧倒的に大人が強いことが多い。子どもに対していくらでも強者になれてしまう。

「強者」「弱者」って言葉が好きではないですが、いろんな能力差を持つ中で、対等にならなければと思ったときに、その差とは何か。友だちだろうが、職場だろうが、能力差がある。それを全部脱ぎ捨てて、体も脱ぎ捨てて、魂と魂がお互い一つずつになったとき、やっと同じ価値になるのかなと。そこを意識して付き合うと、私は、結構対等になれるんじゃないかと思ったりするんです。

 

「主体」の誕生

岡井/仏教的見地から言えば、残念ながら「魂」も「能力」もない。

鈴木/自分が「自分である」というアイデンティティだけが残るという感じですかね?

岡井/ある意味、「自分」を超えている「自分」かな(笑)。前に「らんたん亭」(岡井さんがスタッフとして受ける人生相談)でも話したのですが、「自分とは何か?」というと、目に見える「肉体」じゃない。他者から評価される「経歴」でもない。自分という「主体性を持った存在」なんだと。あるとき、友人と話していて、その人の子どもが、中学の途中から学校に行かなくなったのですが、3年生になって急に勉強し出したという。その子は、「今まで学校に『行けなかった』けど、ここにきて学校に『行かない』と決めた。でも、勉強は必要だからやる」となったのではないかと。選択を決断する「自分」が立ち上がったわけです。これまで、親が「ああしろ、こうしろ」と言う中での「行きたくない」ではない、「自分」という主体が生まれた。その「自分」というレベルが、鈴木さんの言う「魂」のレベルかな。

鈴木/「魂のレベル」、いいですねぇ。そうなると、他者とのかかわりが変わってくる。「他者」を含めての「自分」とは何かと…。

岡井/そうそう! 他者がいないと、「自分」って理解できない。そもそも「鏡」がないと、「見ている自分(主観)」と「見られている自分(客観)」の両方の「自分」が分からない。仏教の本を読んでいるとね、「何かしよう」と思う心に実体はないという。しかし、良いことにしろ、悪いことにしろ、「何かをしよう」という動機によって初めて「行動」が出てくる。何も思わないで行為するのは、「動物」ということになる。

上田/「自分」というものを考える上で、「人間」と「動物」の違いをもう少し。

岡井/動物は、感覚器官があり、暑い寒いと感じる。それに対する反応は、本能にそったもの。日を避けたり、日に当たったりする。しかし、概念を操る人間の場合は、反応が各々一緒ではない。感覚と反応の間に「考える」が入ってきたとき、そこで認識したものを、どうとらえていくかというところに、個々の人の個性が出る。

上田/自由意志を持った人間だから、「暑い」と言って「かき氷」を発明する。そんな自由な人間対人間が対等に向かい合ったら、何かいろいろなものが生まれてきそうです。

鈴木/すごいですね!  人間×人間イコール無限大。

岡井/いい方向にも、悪い方向にも行く、対等だったら。

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