里親は、孤立している

里親・中途養育者
児童相談所に「相談」できず、悩み抱える

では、児童相談所に相談できるかというと、そうではありません。里親には親権がないと言いましたが、養育の難しさや不安を打ち明ければ、「あなたは里親としての資質が低いですね」と判断されて、措置変更で里子を取り上げられてしまうかもしれないからです。児童相談所は、実親の関係を重く見ますし、家族再統合の支援をしていますから、里親にとって子どもとの別離は委託期間はずっとありえることです。

でもそれは児童相談所の職員さんが里親に冷たいなどということでもなくて、本質的な問題は、児童相談所が、相談機関イコール執行機関という構造的な課題だと感じています。これは社会的養護の子ども側から見ても、もし里子が里親に不安や不信感を抱いても相談する場所がないという深刻な問題なのです。

職員の方はとても一生懸命に仕事をされています。ただ、緊急の虐待通報の対応や、親や学校からの相談、福祉事務所や警察等の通告も受け付けていて、その業務量の多さに追われています。「児童福祉司」はそもそも公務員としての任用資格であって、任用要件は必ずしも専門性を求めるものではなく、自治体によっては「来年は土木課へ」と他の部署に配置転換されてしまうと聞いたこともあります。息子の担当も2年で3人も変わりました。専門性が必要な仕事なのに、スペシャリストが育たない。

そこで、日本社会福祉士会会長の西島善久氏が「児童福祉司の任用条件について、社会福祉士や精神保健福祉士を必須とすれば対応できる」と話しており、専門的知識や技術の向上に必要な研修の充実を訴えています。

 

児童相談所は、里親や里子がしんどい時に助けを求められるような委託後の相談援助機関のシステムとして、うまく機能していないのが現状ではないでしょうか。

 

乳児の養子縁組をサポートする「愛知方式」との出会い

キヨちゃんは、特別養子縁組で正式に実子となり、児童福祉法から民法に切り替わり社会的養護下の児童でなくなったことで、児童相談所からの家庭訪問などの支援が一切なくなりました。国によって認められた親子になったわけです。別離の不安なくなった安堵感と幸せで、どんなに胸が一杯になったことか。

 

そもそも0歳のキヨちゃんに出会うことができたのは、産科医の院長先生が18トリソミーの我が子に対しても、普通のお産と同じように大切に取り上げてくださったことが大きいです。どんな子どもであっても命の線引きもしないこと、「子どもよりも、先にまずは親が心を決めて子どもを待つ」という親としての姿勢を院長先生から学び、親としての一歩を踏み出す勇気を授けてくれました。そんな心の父親のような院長先生との大切な出会いがあって、特別養子縁組で親になるという選択肢も2人で前向きに考えてみようと。私たち夫婦は乳児院のボランティアや児童養護施設の里親研修を経て「子どもを育てたい」から「本当に必要な子どものための支援がしたい」に変わりました。

そんな思いがあって児童相談所の里親登録では、なり手の少ない高齢児童や短期の委託、障がい児の養育里親にも手を挙げました。そのような私たち夫婦の子どもへの思いが、いわゆる「愛知方式」(赤ちゃん縁組が養親へ求める厳しい心構え)と重なる部分があって、キヨちゃんとのご縁を結ぶことが出来ました。

私たちの地域ではここ2年間で0歳児委託されたのは私たちだけで、数は全国的にもまだまだ少ないです。

 

愛知方式は、子どもが安定的に育つために、産まれてすぐ育ての親の家庭に迎えられて育てる取り組みです。それには子どもの視点に立ち、子どもを迎える夫婦に厳しい条件があることが前提です。

赤ちゃんの性別、障害のあるなしは選べません。産みの親から子を引き取りたいという申し出があれば、辛くても子どもを返さなければならない。養子に迎えた子どもには、将来子どもにとって適切な時期に、「真実告知」(実親のことを伝える)をする、など。私たちはこれらの条件をすべて受け入れました。

 

「善意」や制度上の「障害物」が、里親を追い詰める

しかし、キヨちゃんが実子となっても、地域の育児コミュニティでの所属のしづらさは深まるばかり。実際に息子の生い立ちを知ると、離れていくママ友もいました。中には、私たちが貧困家庭だと勘違いして、「食べるものない可哀そうな子」と同情する人も。同情でも憐みでもない眼差しを息子に向けてくれる、フラットにお付き合いできる友人がすごく限られてしまう。

危惧するのは、世の中が、里子・養子と育ての親、つまり定形外としての家族を感傷的にとらえることで、結果的に「排除」を生んでしまうことです。育児中のご夫婦などをはじめ地域社会の皆さんに知って欲しいのは、里親が生活者として暮らしていく中、実際の育児生活に対しての里親制度の脆弱性や社会的通念、無理解といった、さまざまな「障害物」にぶつかってしまうという現実です。

 

特に気がかりなのは教育のこと。最近、小学校の低学年では、生活科の授業で「生い立ちの授業」を行います。また高学年時に行われる「二分の一成人式」もあります。内容は学校によって違うようですが、幼少期の写真や名前の由来についてクラスでの発表会があったり。出自を扱う授業は、里親だけでなくステップファミリーなど血縁によらない家族や児童養護施設の子どもたちにとって、丁寧に対応すべき難しい問題です。私が聞いたケースではその授業の際、当事者の里子の生徒は、一人図書室に連れて行かれて他の先生と過ごしたとのこと。配慮というか、排除というか…。「埼玉里母の会」が、こうした状況を改めてもらうため、ガイドラインをつくって、教育委員会教育長よりや県内各市町村教育委員会あての通知とともに、リーフレットが先生方の研修用に配布されました。

 

大きな街では家族が孤立し、つまづく子を支えられない

私たちの暮らす周辺エリアは、教育に対する意識が高く、お受験するご家族が引っ越しされて来るような土地柄です。友人の里親は私立の幼稚園で「施設出身の子どもにはなるべくいてほしくない」と言われてしまったこともあるそうです。

近い将来、キヨちゃんが、子ども園に通う頃には「真実告知」しなければなりません。「あなたには、お母さんが2人いるけど、両方からとても愛されてきた」と伝えても、周囲の友だちや、血縁がある「普通」の家庭と比べれば、とまどい傷つくかもしれない。

 

里子・養子は思春期になると、不登校になるなど、とまどいや不安が行動になって表れることが多いといいます。さらに性の知識を持つ思春期には、自分の出自に対して大人の言う綺麗なストーリーではどうしても収まりきれずにほころびてくる。「僕はみんなと違う。捨てられたんだ…」と、存在価値を疑って自分を責めるようになる。キヨちゃんだってどこかでつまづくでしょう。でもそれは成長の過程で健全な苦しさであって、その苦しさを経ないと「養子の自分」というアイデンティティの基盤が築けない。息子がつまづいたとき、この子を包摂するコミュニティがないとダメだと思ったんです。

 

さらに、家庭養護促進協会理事の岩崎美枝子先生がおっしゃるように「里親と里子における親子関係は、血の繋がりがないゆえにしっかりとした関係を構築することでしか成立しないもの。だから、養子に対して血の繋がっている親子のように見せかけることによって親子関係を安定させようと考えることが、最も子どもを欺くことになる」と。私たち夫婦も同じように感じています。人が激しく流動していく大きな都市で、血縁がないことをどこまで伝えればいいのか?また家族という閉鎖的な空間だけで完結して子育てするのはきつい。だから、徳島に行くことにしたんです。

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