「発達したい」。だから、不登校

不登校
「自分」という存在を消そうとした15歳の心象風景

私もわが子と同じように、子ども時代は、悩み多い日々でした。特につらかった思い出に、中学2年生、15歳の時、緊急入院したことがあります。

 

体育館で、合唱の練習をした後、保健室の先生に呼び出されまして。「あなた、顔色が悪い! 体調おかしいから病院に」と。そこは覚えてますが、後は記憶がさだかでない。たぶん、お母さんが連れて行ってくれたのか。

 

大学病院では、「鉄欠乏性貧血」と診断され、すぐに「輸血が必要」となりました。結構体が大きかったので、小児科じゃなくて、成人の内科病棟に入ることに。周りが、おばあちゃんばかり(笑)。病因は、食事の偏食です。すぐに薬物治療が始まりました。年始年末にかけ、ほかの患者さんは一時帰宅しましたが、私は帰らせてもらえず。正月も、大部屋に1人でずっと点滴を打ち、寂しくて泣いてました。

 

症状は、慢性頭痛、吹き出物、抑鬱、月経不順などです。とにかく苦しい。呼吸が苦しいし、ハクハクするし、胸のドキドキがすごい。学校の行き帰りでは、必ず友だちが私の荷物を持ってくれて。一度座ると歩けないので、立って歩き続けるしかない。5分間隔で、休んでは進む。それでも、全力で走った感覚になるほど、後で激しく疲れます。

 

なぜ、こんな状態になったのだろう…小学4年生、10歳の時に、両親が離婚したことなど、いろんなことがおっかぶさったこともあるのか。今の子どもたちの不登校や、心の問題にちょっと似ているなと思うのですが、当時の私には分からない。今の私にも分からない…。

 

掘り下げると、潜在的なことかもしれません。両親が、ずっと喧嘩をしていて、それが子ども心に、「私のせいだ」と思ったんでしょうね。一言も、私の話は出ないですよ。でも、もう自分の存在を消そうと。それで、意識的に食べないように。

 

幼稚園の頃、バス送迎でしたが、時々、お母さんが車で送ってくれたんです。途中でパン屋さんに寄ってくれる。そのたびに「好きなものを選んでいいよ」と言ってくれるのですが、私は、わざとヤクルト1本と、一番小さいパンだけを選んでました。

 

ひとり親の母を支える「小さなママ」になった少女時代

母は、離婚して、私と弟を連れて東京に引っ越して暮らし始めてからは、アルバイトの仕事を3つぐらい掛け持ち。必死だったと思います。父といた頃、大阪での生活はわりと裕福だったので、その落差もありました。

 

母は、生まれ育ちが大阪です。そこで経営していた喫茶店を結婚と同時に辞めて以来、ずっと専業主婦をしてました。東京に来てからは、子育てがあって、正社員につけない。経済的に苦労し、いつも働いている母を見て、「私が支えないと」と思いつめました。それで「小さいママ」になり、弟の面倒を見るように。当時、周りの大人も口をそろえて私に「お母さんを助けてあげてね」と声をかけたものです。やがて私も、それが自分の「使命」と感じるように。

 

お父さんと離れたことも、相当つらかったのですが、「私、お父さん好きじゃないからね」と言って、母を気遣っていた。母は、元々穏やかな人で、文句も一切言わない。むしろ「お父さんは偉い。すごく一生懸命に働く人だった」と、いいことばかり。後年、私は、結婚して子を持ち、いろんなことが理解できてから、母に対し、当時のことを責めたこともありました。私を一番守ってくれたのは、母なのも分かっているんですが…。

 

病院勤めと介護で、心身すり減らす苛酷な日々

「看護師さんになりたい」と憧れたのは、子どもの頃、入院していたことがきっかけなんでしょうね。当時から、世話好きだったので、周囲の大人から、「看護師さん、合うよ」と言われていました。私はもう「看護師になりたい」じゃなくて、「自分は看護師だ」となりきって。だから、その道に進むのは自然でした。

 

大学病院には、10年勤務しました。憧れの職業につけたのですが、あまりにも苛酷すぎて…。とにかく忙しい。夜勤で入ったのに、翌日と翌々日の夜勤者が、もうすでに働いている。勤務に入ると食事もとらない。精神状態を安定させるために、薬を飲みながら働く人が多くて。ものすごい縦社会で、女性の職場特有の気苦労もきつかった。

 

同時に、母方の祖母の介護が始まります。おじいちゃんが他界した後、おばあちゃんが動けなくなりました。一緒に2人暮らししていた母は、介護で仕事に行けなくなる。そこで、母が職場に行く間、看護師の私がサポートすることに。夜勤明けにおばあちゃんの家に行って、お風呂に入れ、食事をつくり、病院に送迎して…ということを続けます。ここでも、「私が、母を助ける」という一心でした。

 

子どものことも重なります。2人目を妊娠していたので、通勤も大変に。また、子どもの運動会や夏祭りなど、急なイベントも入ってくる。でも、上司との折り合いが悪かったので、相談しても、取り合ってもらえない。仕事と家庭の両立が難しい。

 

多分、子どもの頃から、我慢することに馴染んでしまっていのでしょう。理不尽なことがあっても、「私が悪いから、しょうがない」と、自分を責めてしまう。結局は自己防衛なのですが。とにかく、もう限界だなと…。

 

それで、大学病院を辞めて、自宅から近くの消化器外科クリニックに2年勤めます。仕事はすごくゆるくなりましたが、今度は子どもの方が大変に。働きながら2人目を妊娠して出産。また3人目がお腹に。私の人生は、常に何かセットで抱えている。

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