「発達したい」。だから、不登校

不登校

<インタビュー・牧瀬美香さん>

「行きたくない理由が、分からない」と言う不登校児が増えている

小学生なんですが、わが子の付き添い登校をしています。母親の私が、一緒に学校へ行かなければ、不登校なるというギリギリのところでして…。いじめられてとか、友だちとうまくいかないとか、原因あっての結果であれば解決できます。でも、「理由が、全く分からない」と言う。何かモヤモヤと違和感を抱え、「感情の迷子」になっている。うちの子に限りません。周囲を見れば、最近、そんな子どもが増えています。通学できてるお子さんの中にも、実は登校を渋っていて、行かせるのが大変なことも。私の知る限り、学校が楽しくて行く子は、ほんのわずか。

 

行けない原因が分かれば、保護者と先生で一緒に解決していこうと支援に入れる。そうでない場合、対応は2つに分かれます。1つは、無理にでも、学校へ引っ張っていく。保護者が、学校の門前で先生に「お願いします」と、自分の子を置いてきてしまう。大人が、いはば事態をコントロールしようとする。もう1つは、つらいなら休ませる。私は後者です。

 

例えば、「お腹痛いから、休みたい」と訴えても、実際はお腹に問題はない。先にある悩みが、後から身体症状に出ているわけです。そんな時、無理やり腕を引っ張れば、後々響くだけだなと。私は、小中校合わせて9年間の義務教育を、きっちり受けさせることが絶対とは考えていません。子どもがいつか大人になった時、「衣食住」で自立できればいい。「人生という長期スパンでかかわっていこう」と覚悟を決めたら、気持ちが楽になりました。最初は、とても悩みましたが。

 

コロナ禍で、より深刻になった学校の息苦しさ

やはり学校は、かつてよりも規則が多くなったように思います。「卓上の筆箱は、直角に置く」「文具のキャラクターものは、注意が散漫になるのでNG」など。

 

コロナ禍の3年間で、さらに息苦しい場所になりました。鬼ごっこでタッチができないというルールになるなど、子ども同士が触れ合って遊べないように。鼻マスクをしていれば、先生は「コロナにかかりたいのか!」と大声を上げる。

 

実際に目の当たりにしましたが、保健室の風景に驚きました。具合のよくない子、教室に入れない子たちが並んでいる。それも、「三密(密閉・密集・密接)」を注意されて間隔をとるため、長い列に。どうしても教室に行けない子は、保護者が連れて帰る。付き添える保護者は、そのまま子どもと一緒に待つ…本当に異様です。

 

足立区では、スクールカウンセラーさんが、週に2回、区と都から、1人ずつ学校に派遣されます。それでも相談を希望するお子さんや保護者が多すぎて、いつも予約が取りくいほど。

 

子どもは、「発達する」機会も場所も奪われている

子どもたちが「学校」を受け付けなくなったのは、学校の教育というより、社会的な変化の

方が大きいのかなと感じています。

 

私たちが子どもの頃は、泥んこになったり、木登りしたり、汚れながら遊びました。そんな時代から、環境が激変しています。コンクリートや建物がどんどん増えていって、公園に行っても、ボール投げも焚火も「禁止」と書いてある。思い切り遊べる場所がない。

 

大人の意識も変わってきています。電車内で幼い子どもが泣いたら、周囲がぱっと非難する目になる。お母さんは肩身が狭いわけです。それで「降ります」と。大人社会が、子どもに「泣く」という生理現象を認めない。子どもを大らかに見守れない。

 

学校でもそうです。昔は、「やんちゃ」で通ったけど、それが許されない。すぐに、「問題児だ」「発達に支障があるんじゃないか」と、スクールカウンセラーさんが入って、支援が促される、誘導される。何か診断がなされ、「薬を飲んで治療」というところまで、すぐにいってしまう。

 

保護者も先生も、いったん立ち止まって、考えてほしいです。社会に合わせた人間をつくるのではなくて、その子がのびやかに発達できることを。それこそ、野外で跳ねまわり、大声で笑っても叫んでも、誰にも何も言われない環境づくりが、必要なんです。

 

…子どもがSOSを出している?…そうなんです!  子どもたちは、自身を発達させていく機会も場所も奪われている。本当に、何とかしなければと思います。

 

「衣食住」のことで困らない、自立した人間に

わが家では、子どもに、コロナ禍でも「話してはダメ」と言いませんでした。それで他の子たちが、息を抜きたいのでしょう、家に遊びに来る。うちの子は、学校に行き渋りますが、友だちとは仲良く話せる。だから楽しく騒げる。社会からすれば、私は「悪」だと見なされるでしょうが、子どもたちが、遊びの場を持てるならそれでいい。

 

私が意識しているのは、学科の学習をおろそかにしないこと。もし心が回復して、すんなり学校に行けるとなったとき、授業に追いつけなかったら、それはまた別の壁になるからです。同時に、料理や身の周りの家事など、家の仕事を学ばせる。将来、私が傍にいないようになっても、「衣食住」のことで困らない、自立した人間になってほしいからです。

 

いろいろ教えるうち、子どもは自信をつけてきました。でも、私も仕事があって、身が持たない。それらの学びを、各々の専門の先生たちにお任せしたらどうかと思いついて、形になったのが、今のNPO「あいりす」なんです。当初、団体としては、NPO「子供の食と発育を考える会あいりす」として設立。子どもの発達において、「食」の支援に重点を置いていたのですが、活動するうちに「脳」のエリアにも視野を広げようと。

 

やりたいことを企画し、実現していく「あいりす」の子どもたち

現在は、「食」「学習」「アート」「運動」の4柱に。脳全体がバランス良く発達するようにプログラムをつくりました。講座はオンラインですが、もちろん対面も積極的に行います。人とのつながりは、パーチャルのみでは深く体験できませんから。

 

講師の方は、学習塾や幼稚園、フリースクールの先生などさまざま。教科書と鉛筆を使ってといった学校式の座学ではなく、各講師の方は自身でストーリーを考え、楽しく演出してくれるんです。子どもは、勉強させられているっていう意識はないはず。

 

「アート」の先生は、「臨床美術」の免許をお持ちですが、学校のように、一斉に同じものを同じように描くようにはしません。例えば、リンゴにしても、大いに五感を使って表現しようよと。食べてみて「味の色」はこんなの、ヘタの形が面白い、などと発見したことを好きなように描けばいい。感性を伸ばすことを大切にするのは、すべてのプログラムに通じます。なおかつ、狙いとしては、学科の内容もしっかり身につけさせる。

 

「子ども会議」を、月1回開きます。子ども自身が本当にやりたいこと、普段できないであきらめていることを、何でもいいから提案してみようと。こないだ、「お菓子の家」をつくろうとなり、今計画中です。家の壁にお菓子を貼っていくのか、段ボールで「家」をつくるのか、話し合っています。すべてを決めるのは子どもたち。大人としての私の役割は、求められればお手伝いすることです。

 

対象は、一応、小学生。きょうだいの未就学児、例えば4歳の子が入りたいというなら大歓迎です。その子なりの感性があるはずですから。年齢に幅があっても、子どもたちの「やりたい」「楽しい」というのは、意外と一致している。議論の進め方も任せます。チームになって話し合い、「私、これやる」「あなたは、これやれる?」と、役割分担もできる。子どもたち自身でまとめ、いつも私は完成図をもらうだけなんです。

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