「依存症者家族」から「支援者」に

依存症
日本に移住後するも、回復期に「地獄」

飲む量も減って、家族と過ごす時間も増えましたが、完全に飲酒はとまらない。2008年、日本に移住し、相模原市の実家へ親子3人身を寄せることに。「場所が変われば治るかも」みたいな私の甘い考えもありました。

 

移住の一番の動機は、経済的なことです。私は向こうで現地の言葉が話せなかったんで、ちゃんとした仕事ができなかった。日本人向けのツアーガイドとか、限られた職しかない。英語はできたので、日常生活は支障なかったんですが。夫はコックだから、日本で働けるだろうと期待もしまして。

 

余計に彼のストレスが増えて、精神状態がひどくなりましたね。就職もなかなかできなかった。彼は日本語を話さない。言葉の壁がある。ようやく米軍基地の米兵さんたちが来るホテルで働けることになったのは、英語が通じるからです。もう日本に来てから15年になるので、そろそろ日本語をしゃべってくれてもいいと思いますけどね。

 

店飲みはあんまりしなかったんじゃないかな。家で隠れてとか、仕事の帰りにコンビニへ立ち寄ってとか。日本ではお酒がすぐ手に入るから、飲んだり飲まなかったり。

 

ある程度止まっていた頃、かえってお互いの焦点が相手に向かっていました。飲めずにイライラしている夫は夫で、「酒やめてんのに、なんだその態度は!」と怒鳴り、私は私で「なに、 あなたのその態度!」と大声で返す。相手にばっかり矢印が向かう。もう同じ空気を吸うのも嫌。お互い実家で喧嘩するので、両親からも娘からもいろいろ言われ、サンドイッチ状態に。飲んでるときも地獄ですが、回復期のその時が一番地獄でした。あまりにつらいので、自分の感覚も麻痺してたのかな。とにかく必死に生きていました。

 

自助グループで依存症者の家族とつながる

モーリシャスでは、依存症者の家族の自助グループには、一切つながらなかったんです。それで日本に来て、相模原市の広報誌で、精神保健福祉センターがやっている家族相談を見つけまして。カウンセラーの水澤都加佐先生が主催される「パトリス家族教室」です。ワラをもすがる思い、っていうんですか。気づいたら行っていたみたいな。

 

そのときのことは、今でも鮮明に覚えていて。私の話をふんふんって聞いてくれる支援者の方、家族の方、仲間の方がいる。涙ジャージャー流しながら、これまでのことをしゃべりまして(笑)。いろんなことを学びました。家族としてやっていいこと悪いこと、依存症って病気なんだということを知ることができたというか。

 

家族って、ずっとシラフなんです。だから、彼が飲酒してきた10年間のことを、全部覚えている。本人は飲んでいるから全然覚えていない。だから、家族の方の傷つきの深さというのは半端ない。癒す作業は、めちゃくちゃ時間がかかる。

 

それには、依存症者の家族同士でつながることが大切なんです。つながった家族の先輩たちの話を聞くと、鏡に映った自分を見るようで、「その人たちみたいに自分も乗り越えたい」と思える。体験談って、人それぞれ全員違う。病気の現れ方に、各々の家族の形がある。それに気づくことで、「私も違っていい」と安心したんです。「根っこは、みんなと一緒なんだ」と仲間意識を持てる。通ってもう15年になりますが、パトリス教室からは、何物にも代えられないものを得ました。

 

娘の言葉で、自分自身の「癒し」の大切さ気づく

家族が変わるきっかけになったのは、自分に向き合えたことかな。結局、夫ばかり責めてた。「悪人で罪人、もう本当に死んでしまえ!」って。彼を殺して、娘も殺して、自分も死のうってずっと思ってましたし。だけど、彼は罪人でもないし、悪人でもない。「病気が悪さをして、そういう症状になった」と思えたとき、楽になったんです。同時に、私にも欠点がたくさんあったことに気づきました。傲慢だったり、相手をコントロールしようとしたり、こういう風にやんなきゃダメみたいな「ベキ思考」を押し付けたり。

 

最初、家族の先輩たちによく言われたんです。「心の中で『あっかんべぇ』してるうちはダメ、まずは演技女優になりなさい」と。無理やりでも笑って「お早う」と挨拶する。「ありがとう」と口に出して言ってみる。それを続けていると習慣になって、普通にできるようになる。女優が女優でなくなり、本物になってくるというか。やがて焦点が自分に向かったとき、不思議と夫も変わっていって、お互いが穏やかに。

 

その頃、中学生で反抗期だった娘が言ったんです。「ママ、なんかさぁ、いつも笑っててキモいんだけど~」って。彼女なりの表現で、嬉しそうな表情でした。その言葉を聞いたとき、いかに自分が笑ってなかったというか…。まず、自分自身が癒されないと、周りには絶対優しくできないって実感したんです。私が変われた決定的な言葉かな。

 

現在、夫は飲んでいません。断酒の自助グループにも通い、家族との会話も増えてきたし。以前は私、お腹空いたから、とりあえず食べるみたいな感覚だったんですけど。今は心から本当に「美味しい!」と思えます。花がキレイとか、人の優しさとかも感じられるように。こうした体験をさせてくれたのは、「依存症」のおかげかな。20年かかりましたけど(笑)。

 

Y-ARANで支援者としてかかわる

Y-ARAN(横浜依存症回復擁護ネットワーク)に勤めるきっかけは、現理事長の城間勇さんとの出会いです。まだ苦しい最中で、セミナーや研修などに通っているときでした。たまたま川崎市の会場で、神奈川県内にある依存症施設の施設長たちが、施設紹介する説明会に参加。城間さんが、当時開設予定のY-ARANの理念や主旨を話すのを聞いて、依存症の回復に絶対に必要なのは「家族」というのが一番響いたかな。そして、どんな人でもつながれる「多様性ある場所」ということ。「あぁ、私かかわりたい!」と思ったんです。壇上から降りて来たその人を追っかけて、「ボランティアでもなんでもいいから、やらせてください!」って、電話番号を渡しました。

 

実際、Y-ARANで支援者として働いてみると、最初は、良かれと思ってやったことが、全然うまくいかなかったですね、「こうすべき」とつい押し付けてしまう。苦しんでいる家族の方には、お説教のような感じになる。すると、誰~もつながんない。「えっ、なんで、なんで?!」と右往左往してしまう。アドバイスといっても、教科書に書いてあるようなことです。例えば、「お酒は捨てちゃダメよ」「お金は渡しちゃいけない」とか。家族にしたら「そんなの分かってるよ」みたいなことを言ってた。

 

一番つらいときに聞いてくれるばずないと気付いたんです。以来、ただただ傾聴することに。後で自分の体験をちょっと話す。それが一番良かった。で、いまだに続けています。

 

依存症者と家族に伝えるアドバイス

世の中の依存症者への誤解は、悲しいほどあります。「意志が弱いからなるんでしょ」「わがままで飲んで、人に迷惑をかける」などの言われ方をする。そういった誹謗中傷が、余計彼らを悪化させてしまう。

 

まずご家族が誤解している。真っ最中のときは、「ご本人は、何を言っても飲む。病気だから、止める方法はない」と伝えます。そして「目の前の状況にとらわれるより、まずご自身を幸せに」と加えます。自分の好きなこと、楽しいことをすればいい。ご家族の方が心に余裕を持てれば、ご本人も必ず変わる。ただそうしたことは、少し落ち着いたときなど、タイミングを見極めて伝えることが大事だなって。

 

どちらかが先に変われば一番いいんですけど、たいがい当事者はなかなか変われない。家族が意を決して方向転換しない限り、どんどん相手の病気に巻き込まれてしまう。

 

「飲んでない幸せ」を積み重ねてほしい

YーARANの活動スタイルは、独特かもしれません。自治会のお祭に参加したり、月2回の公園掃除をやったり、地域とのつながりを大事にしています。「依存症の人たちって、なんか普通じゃん」みたいに思ってもらえることで、誤解をなくすことができるかなと。

 

毎日、さまざまなプログラムを行っています。依存者自身のマイヒストリーを語ってもらうこともあれば、季節ごとのイベント、料理、園芸、絵手紙などの講座もやります。こないだは、写真家・後藤勝さん(vol.44)がメンバーをモデルにした撮影会が楽しかったな。講師の方は、私が出会った方々を、半分強引な感じてお招きする感じですね。写経の先生が、元職場の同僚だったり。どの方も快く引き受けられ、ボランティアでご協力いただいていることに、いつも感謝しています。

 

隣は民家ですけど、塀の向こうに大家さんのペット、「八兵衛」という名のヤギがいまして。みんなが八兵衛を見る表情が、本当にいいの!  アニマルセラピーになってます。

 

今まで飲んでいた人って、「飲んでいない幸せ」を知らない。普通ではない状態で生きてきたわけですから。ごく普通の趣味や体験を提供して、小さな幸せをたくさん積み重ねてもらえればなと。

 

ここでは、特に細かいルールはありません。その分、自分がしっかりしてないと、なんでもできちゃう。飲めちゃうし。でも「回復」という同じ目的を持った仲間がいて、支え合えるんです。

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