<インタビュー・北島惠美子さん>
幼少期に「蟻の街」で医療ケアに目覚める
幼少期は、家族と荒川区に住んでいました。廃品回収業者の居留地や、ドヤ街の山谷がご近所です。当時、「蟻の町」と呼ばれた地域で、名の由来は、戦災で家族を失った人たちが、貧困の中、アリのように勤勉に働き、助け合って生きる、ということ。そこには日本中から聖職者や奉仕者が集まってきていて、貧しい人々のために、食事の世話、家庭訪問、病院の世話をする姿がいつも身近にありました。上智大学の学生らも付近に下宿し、教会に集まる子どもたちに食べものを補給したり、勉強を教えたり。私にとって、ドイツ人のアロイジオ=ミヘル神父様との出会いが大きかったですね。上智厚生事業団を率いて救済活動をされていたんです。ご自身も東京大空襲で焼け出されながら、以来ずっと貧しい人のため働かれていて。
毎日、神父様はじめシスターたちが街を歩いている。彼らが、バラックの長屋から、ぞくぞくと出てくるのを、よく見かけました。中を覗くと、汚れた服を着ていた10人ほどの子どもたちがこざっぱりし、部屋もきれいに片付けられてる。子ども心に、「こんな大変なお世話、私はイヤ!」と思いつつ、「でも、だからこそやらなきゃ」と。4歳のときです。そんな気持ちにかられたのは、母の影響もあるのでしょう。朝、家の門の前に、行き場を失った男の人が座り込んでいると、私に水とおにぎりを渡させたんです。「ミヘル神父もしていることだからね!」って。
労働者の街なので、子どもには怖いところ。飲み屋がいっぱいあって、いつも道端に酔いつぶれたおじさんたちがいました。「大関横丁から間違って道を曲がったら、殺されるよ!」なんて普段からおどかされている。刺されて死んでる人も見たことも。そんな環境で育ったから、ずいぶん鍛えられました。たいていの物騒な道でも、歩き方を知っている!
小学5年だったから、11歳のとき。山谷の道端に、おばあさんが倒れてたので、駆け寄ったんです。「怪我しましたか? 大丈夫ですか?」と助け起こしたら、おでこと膝から血が出てる。「助けたい。でもやり方が分かんない…」と何もできない。そのとき「技術を身につけたい!」と強く思ったんです。幼い頃から、医療のことに関心を持ったのは、父が元衛生兵だったこともある。実は、シベリア抑留を経て終戦5年後に復員してます。戦地で多くの負傷者を手当した様子や、その後の捕虜生活の過酷な様子を直に聞いてきました。
バタ屋の女の子に、「学校」を届けたい
あるいは8歳のとき、また道端ですけど、今度はバタ屋さんが引くリアカーを見て、はっとなる。自分と同じ年頃の女の子が、段ボールや布切れの間に座っていたんです。「バタ屋さん」って、今でいう廃品回収屋で、「いらないものありませんか~」と言いながら街を回るお仕事。彼女から目を離せないでいると、近所の友だちが「見ちゃダメ!」って。「見ちゃいけないことが、世の中にあるの?!」とびっくり。さすがに下町ですよね、後で近所の大人たちが聞きもしないのに、「ああいう家庭の子は、学校に行かないんだよ」と教えてくれました。
後日、上野・不忍池にある市場に、親が買い物に連れて行ってくれる。その池の端、また木場(木材を浮かべ保管する場所)にも、小型船がたくさん浮かんでました。戦後の混乱期から暮らす水上生活者たちの住居なんです。その中の1つから、私の方に手を振ってるのに気づくと、あのバタ屋の女の子でした。「ああ、ここに住んでるんだ!」って。少し前から顔見知りになってたんですね。お船を見ると、出入り口に、郵便ポスト代わりの赤いランドセルがかけられてる。「自分は学校に行かせてもらってるけど、あの子は、学校の方で呼んでくれないんだ。じゃぁ将来、私が、困った子たちに授業の出前をしなっくっちゃ!」と決意。自分も子どもなのにね(笑)。
教育者でないシスターに物足りなさ
シスターたちが、貧しい家のお世話をしているのを、ずっと近くで見てました。子どもの相手はもちろん、ときに夫婦喧嘩も仲裁する。いつも傍にいるから、シスターたちは、私にもかかわってくれるように。教会にも呼んで「学校は楽しい? お父さん、お母さんはどうなの?」と色々聞いてくれる。最初は遠慮して何も言わないでいたら、「何を言ってもいいんだよ」と。それで話すと耳を傾けてくれるので、こちらも心を開くように。
ひまわりの絵をすごく上手に描くシスターがいたんです。教会に、図工の画用紙とクレヨンを持って行って「描き方、教えてください」とお願いしたら、「教えることはしてません」と断られる。教育は学んでない専門分野だからということでしょう。でも、私は「物足りないな」と。シスターたちは、病院でも働いているから、病気の子どもたちにも接している。なのに、やっぱり教えることはしない。「医療と教育を結び付ければいいのに。あっ、自分がやろう!」と思いつく。これで人生決まっちゃった(笑)。小学6年、12歳のときです。「教育」が最終目標で、その手段として「医療ケア」の技術を先に身に着けたいということは、はっきりしてました。
小児科病床の子に学んだこと
看護学生時代は、看護学生として大学病院に勤務。小児病棟を担当したとき、18歳までの子どもたちが病室で、学校の教科を学ぶ機会もなく、ベッドの上で無為に過ごしている。そこで上司の医師に、「教員を置いたらどうでしょう? 中学校教員でも、高校の科目までは教えられます」と提案しました。すると「学生の分際で、何を言うか!」とにべもない。そこで、「私が白衣を着て、教えます!」と言い返して、実行したんです。当時は、小児科病棟で、病気の子の学びをサポートするという発想が世間にはなかった。でもその後、私が勤めた病院では、全国に先駆けて、「プレイルーム」を取り入れ、保母さんを置いたんです。4、5年前からは、厚生労働省が、全国の病院に「プレイルーム」の設置を奨励してます。やっと時代が追い付いてきた。
小児病棟では、たくさんの印象深い体験をしました。その中で、白血病で入院していた小学6年の女の子は一例。彼女は、感染してしまうから、病室の外には出られない。ある日、「看護婦さん」と私を呼ぶんです。「昨日、『モモ』(ミヒャエル・エンデ作)を読んで、山の向こうの向こうまで行ってきたんだよ!」って報告してくれる。大人の患者だったら、「なぜ自分は病気なんだ!}」と怒ったり、「私はどうなるの?」と悲嘆したしますよ。でも子どもは、「今、どう過ごすか」で心がいっぱいなんですね。死ぬことなんて、計算に入れてない。だから、人と繋がりたがる。どんな状況でも、子どもはリレーション(関係性)を生き生きと楽しむ存在だということを、彼女から教わりました。
「教育ケア」を本格的に実践
教師となるため、病院を退社し、大学の教育学部に入学。卒業後、東京都の小中学校に赴任して教えました。そこで、「医療」と「教育」を合わせた「教育ケア」を開発し、実践したんです。基本的には、学級内の生徒で医療的な視点でのケアが必要な子を、担任教師を中心に、多職種連携チームで支えるというもの。学習を含めて心理面、親御さんの対応など、総合的にです。学校側の医療ケアの軸となるのは、看護師免許を所持する養護教諭。その人が、チームリーダーとして、担当教師と共に、地域の専門家である、医師、保健師、臨床心理士などと連携します。
教育界でも、「医療」は「別の星」のこと。「教育ケア」を、当初は学校側に受け入れてもらうのは大変でした。でも実践してみる、とても有効だったんです。体の病はもちろん、心に問題のある子、さらにその親御さんが、多職種連携チームによって、良好な状態に回復したケースが何件もあります。また、小児病棟で入院する子や、自宅療養する子の学習もサポートすることができました。
「教育ケア」の概念は、大阪府立大学のメンバーとつくったもの。学問的に説明すれば、「医療的看護」により「well-being」を養育しながら、「教育」により「well-growing」を図ることです。詳しく言うと、「being」は「存在」で「その子らしくあること」、「growing」は「成長」で「その子らしさを引き出すこと」。この2つを「well(十全)」にするようケアし、子どもの「potentially(潜在力)」を育むのが目的です。それにより、豊かな「人格」が現れる。ちなみに「well(十全)」とは、WHO(世界保健機構)」が定義する「健康」な状態。つまり、身体性・精神性・社会性である「physicallife(物質的生)」の側面と、「いのち」である「spitual life(霊的生)」の側面を合わせて、「最高水準」を享受しているレベルにあることです。
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