校長の仕事は、子どもの話を聞くこと

名教師
一本気な軍人で、戦傷者となった父親

僕は、大分県の国東半島に生まれ育ちました。家族は個性的で、結構影響を受けたのかな。じぃちゃんは偉かったけど、親父はワンマンで短気で、軍刀を抜くような人だった(笑)。従軍してるんですが、外地で部隊長補佐を務めたときのことです。上官が、死線を潜り抜けた兵士たちを、ないがしろにする態度をとったので、親父は怒り心頭。涙をボロボロ流しながら、自分の軍刀でその上官を斬り倒そうとした。寸前で「やめてください!」と部下に制止されたそうです。「昨日のことのように覚えている」とよく言ってしましたよ。

 

前線で戦闘中、友軍(味方)による砲弾の誤爆で、約30名が生き埋めになったそうです。駆け付けた衛生兵が躓くと、地面から足が出ていて、もぞもぞ動く。掘り出したら親父でした。体にいっぱい破片が入ってしまい重傷だったので、そのまま外地の陸軍病院に入院。病院で目が覚めて、「あっ、生きてるんだ」と気付いたそうです。結局、船で送られて、熊本の病院に。いわゆる「戦傷者」ですよ。

 

回復後もまだ戦時中だったので、田舎町の防空監視哨の所長をさせられました。米軍戦闘機のB29が上空に飛んで来たら、双眼鏡で確認して、空襲警報を発令する仕事です。「俺は負傷してるのに、危険な任務につかせて!」と、よく怒ってました。

 

戦後、8月の終戦記念日には、おふくろと連れ立って、千鳥ケ淵戦没者墓苑(遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置)へお参りしてました。「靖国神社で、ちょんちょん(柏手)するのは、嫌いだなんだ!」と、いつも言いはる。それでも一応鳥居の外から靖国神社に手を合わせて、千鳥ヶ淵の墓地へ行き、最後は浅草で美味しいものを食べるのがお決まりでした。「父ちゃん、もういいよ」とおふくろが言っても、このコースは最後まで続けましたね。

 

親父は、根っからの軍人ですよ。軍人教育を徹底的に受けたので、いいか悪いかは、はっきりしてる。「敵」と決めたら、もう「敵」(笑)。

 

町の人望家として慕われた祖父

じぃちゃんは、大らかな人だった。部下や味方はもちろん、苦手な人でも、同じように付き合えた。地主でしたから、わが家は大きな家屋で、いつも知らない人がたくさん来てたの。じぃちゃんは、戦争で親を亡くした子どもたちの面倒をよく見てましたよ。家に招いては着物を着せてあげて、おにぎりなんか手渡す。「自分で布団を出して寝な」なんて言って、泊まらせてました。後年、その子どもたちが大人になると、よくじいちゃんに「会いたい」って訪れてました。商社の社長に出世したある人は、じぃちゃんのお墓に札束を置いていく。さすがに親父が追いかけて返しましたけどね。僕はその時、生まれて初めて帯のついた聖徳太子の束を見ました。じぃちゃんを慕う人たちの名を、何人も覚えてますよ。

 

足立区議会に怒る

先日、足立区議会の傍聴席から、区の教育担当者の発言に、「ふざけんなぁ!」と怒鳴ってしまったんです。学校をあくまで行政側で管理し、子ども側の視点に立たない考え方が、どうしても我慢できなかった。「何言ってんだぁ、そんなことで教育できるか!?  僕は足立の学校で40年飯を食ってきた。足立が好きだから言うんだ!」と、気が付いたら大声を上げている。「あぁ、軍刀を抜いてしまった…」と、すぐに後悔。

 

会が終わると、「議場で失礼なことを発言して申し訳ありません」とお詫びに行きましたよ。「こんなことは足立区議会が始まって以来」と苦言をいただき、さらに恐縮。議会をはじめ、関係者の方々に、大変なご迷惑をおかけして申し訳なく、反省しています…。

 

やっぱり、じぃちゃんの大らかな気持ちには、なかなか達しないなぁ。親父の方には、つい似てしまうのか。その親父なんですが、晩年、地元の町の教育委員もやってたんです。親しくしていた町長さんや議員さんに「やってください」と頼まれたらしい。「あの親父が、教育委員なんて、信じられねぇよ!?」って、よく思いましたけどね。

 

「外交官の夢」破れて、天職に出会う

若い頃は、外交官を目指していた時期もありました。元々、世界平和に興味があったんです。地球上の人々みんなが幸せに暮らすために、何か貢献したかった。当時、大学の教授に相談したら、「カルフォルニア大学か、ハーバード大学に行って勉強するしかないよ」と言うので、「英語ができないから、先生、英語で授業してください!」と直談判。「ほかの学生が分かんなよ」なんて笑われて終わり。

 

見事、外交官試験に落ちました。ある新聞社の印刷局に合格したけど、キャンセル。大学院や学部の私学に入り直し、幕末外交史などを学びます。教員の免許を持っていたので、大学付属中高校の非常勤として歴史を教えることに。それがきっかけで、東京の公立学校の教員、つまり学校の教師の道を進むことになりました。今から思えば、よくぞ教師になったなぁと。天職ですよ!

 

足立の学校・子どもは、日本を変える力あり!

うちのカミさん、僕が校長も辞めて引退した直後、「これで落ち着ける。あ~すっきりした」と思ってた。でも、辞めたとたんに、かえって忙しくなったので、「お父さん、普通じゃないよ!」って。現在、足立区での「子ども版地域包括支援センターをつくろうの会」、子ども支援学会、埼玉県の教育関係、調布のラジオ(調布FM「人生の玉手箱」パーソナリティ)と4つの活動に限ってます。中でも、足立区のことは、命かけてんだから! 辞めてからも38校回ったんで、小中学校の校長先生たちとは、みんな仲良しですよ。この区の学校も教育も、潜在的な可能性がものすごくある。東京都のどの区よりも、足立の子どもたちの目は、輝いてるんです!足立が変われば、東京都、日本を動かしますよ。いい風を吹かせなくっちゃ。

 

ああ、そうだ…先日、ご一緒に伊興中を見学したでしょう。そのときに、今の校長先生に言い忘れたことがありました。校庭に植わっている木のことなんですが、あれは「後継樹」なんです。僕が学校を辞めるとき、町会長から頼まれたの。「木が倒れたときに備えて、子ども、孫と3代は継ぎ木をつくってほしい。そうすれば、この学校は永遠に続くんだ」と。この言葉を、代々の校長が受け継いでいかないと。柏の木でねぇ、綺麗な白い花が咲くんです。見てるだけで癒されますよ。葉っぱはつやつやしてて、餅をくるんで柏餅にしたことがありました。生徒みんなに食べさせ、余れば持って帰っていいよと。町内会長さんにも配りました。次の日、学校に電話がジャンジャン鳴る。「美味しかった」「美味しかった」って。そんな思い出がありますね…。

 

(聞き手・ライター上田隆)

 

 

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