おかあとパワースポットで出会う
父親が1人で貿易の仕事をしていたので、「じゃぁ、僕も手伝おう」と。そこが長かったんですよね。8年ぐらいいた。自動車の補修部品ですが、マレーシアに輸出したり、韓国にもルートができる。隙間産業で、英語を使ってビジネスするわけです。
順調ではなかったです。大手の会社がだんだん顧客を囲み出して、町工場に頼むところが減る。同時に、僕たちの仕事がなくなっていく。「いずれ、この仕事も考えないといけないな」と。いつもその時々の状況に流されて、ものごとを決めていく感じですね…。
家族経営なので、比較的に時間は自由に使え、休日も多くとれました。神様の話も好きで、神社巡り、パワースポット巡りを目当てに、和歌山県の熊野古道へバイクで一人旅したんです。そのときに、おかあと出会いました
夫婦で「こそだて喫茶cotoca」設立
結婚して、結ちゃんも生まれて、夫婦とここ(現在のヰヱの家屋)で「こそだて喫茶cotoca (コトカ)」を立ち上げます。おかあは子育て的なこと、僕は飲食的なことをやりたかった。そこで父親との仕事を辞め、パン屋でバイトをやるなど飲食店で働き、ノウハウを身つけてからスタートしたんです。
当初は、オーストラリアですごく美味しかったチーズケーキをつくって販売しようと思いました。でも、「子育て」と「食」の勉強をしてたら、乳製品は良くないんじゃないかと。つくる過程に疑問を感じたんです。牛舎に牛を閉じ込めるストレスある環境や、乳を採取するためにホルモン剤を打つなど問題が多い。
チーズケーキは諦めて、「ヴィーガン(環境や動物福祉に配慮し、動物性食品を一切使わない)」のお菓子をつくることに。米粉でつくったグルテンフリーのお菓子などを焼いて、店に出しました。また、玄米の美味しい焚き方や、「マクロビ(マクロビオティック/陰陽論を交えた食事法で玄米や全粒粉を主食とする )の基本になることも学び、講座も行ったり。
マルタ共和国へ家族で移住
「コトカ」をやっていたら、やがて結ちゃんが小学校に上がる時期が近づく。ここに来るお客さんから、牛乳の出る給食や、窮屈な授業のことなど、学校のあまり良くない話を聞いてしまう。自分の個性を失わせたくない子育てをしたかったので、色々探して「海外に行くか」となりました。オーストラリアにシュタイナー学園(哲学者シュタイナーが提唱した「自由への教育」を実践する学校)があったんです。そして僕自身が自然環境のことを学べる職業訓練校も。この国には、かつて1年滞在したので、何となく勝手が分かるしバイトもできます。それで家族での永住計画を決行することに。「コトカ」は、引き継いでくださる方がおられ、そっくり譲りました。
ところが出国直前で、コロナで行けなくなってしまう。ビザも全部キャンセルに。せめて英語だけでも勉強したいと、それで急きょマルタ共和国に変更。同じ英語圏で、コロナ禍でも入国が可能だったんです。しかし、いざ行ってみると、アジア人が向こうで生活するには、バイトや就職がしづらい。希望していたエコファーム(環境型共生農園)にも受け入れてもらえず。それでしかたなしに帰国しました。
マルタで得た一番のことは、結ちゃんが、どんな国の人たちでも交流をできるという自信をつけたことかな。言葉が通じないのに、友だちをつくり、一緒に遊ぶことができたのは、とても貴重な経験に。
宮崎で「パーマカルチャー」の夢を追う
「コトカ」をやっていたときに、食事に対しての不安が募り、「自分で食物を育てよう」という思いが強くなります。海外移住を決意したのも、「パーマカルチャー」を意識して。「持続可能な社会や暮らしに変化させるデザイン科学概念」で、オーストラリア発祥なんです。言葉としては、「パーマネント(永続性)」「農業(アグリカルチャー)」「文化(カルチャー)」の3語を組み合わせた造語。
日本に帰国してからも、ずっと「パーマカルチャー」が頭にありました。今「ヰヱ」でやろうとしているコンポストトイレや雨水利用といった「オフグリット」につながっています。要は東京・千住で、「都市型パーマカルチャー」ができないかと。ニューヨークの郊外で実践している人を映画で見ましたが、庭木の葉をトイレットペーパー代わりにしてました。僕の目指すモデルです。
宮崎県に行ったときは、いずれオーストラリアに戻ることが前提でした。しかし、3つのことから、それが怪しくなってくる。生活するうち「お金を稼がなくては」と焦り出したときに、「農業をやりませんか?」と農家の方から話があったこと。高千穂にパーマカルチャーを実践されている方がおられたこと。そして、結ちゃんが通える自然スクールが見つかったこと。それで結局、2年間、宮崎で暮らしました。
農業の壁厚く、東京に戻る
農業を実際にやってみて、いろんな矛盾も感じます。国の方針が、「とにかくつくればいい」「食の需要を満たせ」というものでしかない。「環境保全型農法」には、一応、補助金は出ますが、新規の就業者である僕たちが「オーガニック農業をやりたい」と申し出てもダメなんです。受けつけてくれない。既存の農家なら、すぐに許可が出ます。しかし、彼らの多くは兼業農家で、高齢者の方々が大半。無農薬で少しずつ土を改良するような手間のかかるオーガニック農法なんてできません。労力を省くことから、土に除草剤を撒きますよ。野菜に直接かけないので、「無農薬野菜」としていますが。
宮崎から東京へ戻ることになったのも、農業のことも含め、いろんなことが複合して。宮崎では、おかあと結ちゃんが不便を感じるんですよね。畑しかできなくなっちゃう。食材の買い出しは、わざわざ30キロぐらいの先の店に行かねばならず、自家用車のトゥクトゥクで行き帰り4時間もかかる(ちなみにトゥクトゥクは、宮崎時代に、タイから取り寄せ購入しました)。結ちゃんにしても、自然体験できても、他のいろんな人たちと交流する機会が持てない。「東京に帰るしかないのかぁ」と。
やがて宮崎で買った家に、住んでくれる人が現れた。大分から引っ越してきた米農家さんで、肥料を使わない農業を実践されている。その方が丁寧に育てたられたお米と交換で、家を譲ることに。また「コトカ」を引き継いだ人が「辞めたい」というので、東京での活動拠点が再びできる。結ちゃんの学業は、都市の方がいろんな可能性があるなと。これら3つのことから決断しました。
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