<インタビュー・改田昌寛さん>
ライフラインを自前でつくりたい
「ヰヱ(イエ)」のコンセプトは、「みんなで泊まれる共同スペース」です。「イエ」でありつつ、「マチ」や「ムラ」みたいに、この空間を使ってもらえればと。イベント、ワークショップ、スペース貸し、教室開催など、ご相談に応じて対応できます。「オフグリッド(電気や水道など、ライフラインを公共機関に頼らない)」が、ここで完結できるのが理想。まさに「みんなで使う実験の家」になればと。(「なにしてんの?」と、こちらの背中をつつくので振り向くと、4歳の男の子がニコリ)。…あぁ、近所に住む友人のお子さんなんです。親御さんが仕事の間、ここで預かることもやっていまして。
1階をイベントスペースに。「今日は床にテントを張って寝るんだ」といった遊びもやりました。2階には、ルームシェアの1室を用意していて、近々、女性がお1人住まわれる予定。
…私たち家族ですか? 今はヰヱには、住んでいません。おかあに怒られ追い出されて、僕だけこっちで寝泊まりすることはありますが(笑)。
今、「コンポストトイレ(水を使用せず、好気性微生物の活動で廃棄物を分解)」を準備しています。そこでできた土を庭の家庭菜園で使い、育てた野菜を採ってみんなで食べる。電気は極力使わず、いつか冷蔵庫もなくしたいですね。昨年まで宮崎県の田舎で暮らしていたときは、山からの水が使えたので上下水道もなし。北千住の都心ではそれは無理なので、雨水をタンクを使ってろ過し、飲めないかなと。
「食」のこだわりは、幼少期から
僕は東京生まれで、3歳から埼玉育ち。子どもの頃から、「食」のこだわりがありました。「美味しい卵ごかけ飯」を、自分なりに色々追求。あったかいご飯に直接卵を割って落とすと、ちょっと粘りが出て味が変わって良くない。卵は必ず別の器で割って混ぜてから、あったかすぎないご飯にかけると、サラサラとして食感が良く美味しいことをつきとめたんです。家族が勝手にご飯の上に割って載せると怒ってた記憶がある。小学校低学年の頃かなぁ。
小学校、中学校、高校の12年間は、「皆勤賞」でした。インフルエンザでの閉校や、部活のイベント以外は、休んだことがない。何も考えずに、ただ学校に行って、友だちと遊んでいたというか。
哲学少年の壮大な夢想
哲学や宗教の話は好きでした。一番最初に興味を持ったのは、ビートたけし主演の「エホバの証人(キリスト系の宗教団体)」であった実話を再現したドラマです。息子さんが交通事故で輸血が必要になりますが、宗教的理由で家族はそれを拒否。結局お子さんは死んでしまう。それで宗教から抜け出すのかと思いきや、「自分たちの信仰が足りなかった」と余計にどっぷり宗教に入っていく。それを見て、人の考えの不思議さにとまどいまして。
「自分」という存在について、お風呂に入りながらよく考えていました。僕の体の中には、自分と同じような人間たちが暮らしているように思えてくる。そして僕たち自身も、誰かの体の中の存在なのじゃないかと。体の主が亡くなれば、中の存在も消滅する…。当時は知らない言葉ですが、「フラクタル(自己相似性)構造」というか、「自分」が「入れ子」になって無限に続いている、という感覚がありました。
それでも、宗教や哲学を、学校で学ぼうとは思いもつかなかった。英語に関心があったときは「外交官」に、人に教えるのが好きだと思えば「先生」になりたいと。普通に学校へ行って、普通に働くんだなと、将来を本当に単純にしか考えていませんでした。
「教師」あきらめ、「土木」の世界へ
高校生までは数学や物理が好きだったので、結局、数学の教師になろうと、教員免許が取得できる大学を探します。高校時代、部活ばかりやっていたので頭がついていかず、受験できるところがなかなか見つからない。やっと入学できた大学で、数学の教員免許は取れる環境に。でも、1年生の時点で単位を取り切れずに失敗し、諦めました。土木学科だったので、土木の仕事を目指すことに。
都市計画をテーマに選び、卒業研究もやりました。都市緑化に興味を持ったので、卒業すると水道局関連の土木会社に就職。上水道の配管の設計図を作成する仕事に就きました。当時土木業界は、談合問題で叩かれていて、うちの会社もそのあおりで経営が傾いていきました。
「じゃぁ、また別の仕事を探さなければ」と、見つけたのが造園の仕事。ちょっとでも「緑」にかかわりたかったんです。その会社は、社長と喧嘩になって辞めました。仕事の後、本人からの飲みの誘いがやたら多いので断り始めると、納得いかなかったようです。「もう土木はダメだ」となる。
「システムエンジニア」から「オーストラリア」
そのときに知ったのが、「システムエンジニア(SE)」。ちょうどSEのバブルだったんです。プログラムを学ぶため、専門学校に3カ月コースに通うと、終盤の頃「人材が欲しい」という会社が学校に来ました。「久しぶりに面接でも受けようかな」と、練習のつもりで応じると、「翌週から来てほしい」言われ、結局そこに就職。仕事は、プログラミング言語を組み合わせて、システムをつくり上げるもの。バズル的なものが好きだったので、性には合いました。そのうち大きな仕事を任される。終電で帰って始発で行く、たまに徹夜もあるという多忙な生活が続きました。一区切りついて解放されたときに、ふと自分の人生考えました。「こんな仕事でいいのだろうか?」と。
息抜きに友だちとプールに行ったときのことです。「英語が学びたいなら、短期語学留学があるよ」と教えてもらう。知らなかったので驚きました。すぐに会社に「辞めます」と言い、エージェントに話をつけ、オーストラリア行きを即決。友だちからアドバイスを受けて、4カ月後には出国しました。26歳のときです。
1年学んで帰国。だいぶしゃべれるようになったかというと、そうでもない。英語の発言のニュアンスや文章の組み立てなど、大まかにはつかめるように。日本人の英語学習みたいに、がっちり正確にというわけじゃなく。
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