「山谷」を、「依存症者」として支える

貧困
依存症事例「田中健児」の青春時代

ここで、依存症の事例を一つ紹介したいと思います。東京都在住の田中健児さん、56歳。僕のケースです(笑)。1967年荒川区生まれ、家業は寿司屋。店のカウンターで、よくご飯を食べていました。身近に酔っ払いがたくさんいて、子どもの頃から遊び半分でお酒を飲まされましたね。中学生の頃は、 スポーツも真面目にやって、陸上競技の都大会で優勝。健全な少年でした。高校に入ると、60年代から70年代のドラッグカルチャーに影響を受けたロックにのめり込む。バンドをやっていた先輩に薬物を教わり、学校帰りに居酒屋でアルバイトを始めてアルコールも飲む生活に。進学校でしたが、学年で僕1人だけ、進学も就職もしませんでした。

卒業後1年ほどぶらぶらしていた19歳のとき、観光ビザでアメリカに入国。ロサンゼルスで不法就労の寿司職人として1年数カ月働きます。その間、朝から晩まで、コカインやクラックなどの薬物をやりました。やがて警察に捕まります。運良く、持っていたハードドラックは見つからず。自宅で栽培していた大麻の鉢植えを押収されただけで済みました。でも、その件があってから、人を見れば警察に見える、いつも見張られている気がするなど、被害妄想と思われる症状が出るようになり、結局、夢半ば、帰国することに。

日本に帰ってからは、職業を転々としました。テキヤ、民族音楽のライブハウス、お墓掃除、派遣作業員、 米軍基地、バーテンダー、ビル清掃など。特にテキヤは、16歳から46歳まで、約30年間やっていましたね。テキヤもバーテンダーも酒を飲みながら、できる仕事なんですよ。

飲酒や薬物中心の生活を続け、依存症になりました。心理的には異常な執着や衝動性が高まり、コントロールがきかなくなる。はじめは快楽を得るためでしたが、やめると離脱症状が起きるので、その苦痛から逃れるために薬物やアルコールを必要とするようになる。

 

こんな古代エジプトの小咄があります。

「なぜ飲むのだ? 」

「忘れたいからさ」

「何を忘れたいのだ? 」

「忘れたよ、そんなことは」。

 

人類って、昔からこんなことをやっていたんですね(笑)。

 

依存症のまま、福祉の仕事に

20代から30代は定職にもつかず、転職を繰り返しました。

バーテンダーの仕事をしていたとき、いつも家族連れで来店していたお客さんの、脳性麻痺による身体・知的障害があるお子さんと仲良くなりました。そのお客さんからの勧めで、自閉スペクトラム症など知的障害児の外出支援のアルバイトやボランティアを始めたことが、福祉の仕事を始めるきっかけになり、36歳のときに精神科クリニックの面接を受けたところ、無資格で未経験なのになぜか採用され、通常と順序が逆で先に「支援者」になってしまったんです。 しかも、配属されたのがアルコールや薬物依存症の通院治療を行う「アディクション・フロア」でした。

働き始めた頃、自分自身は酒も薬もやっていまして、バーテンダーの仕事も続けていました。昼間は酒をやめさせ、夜は飲ませていた。でも、医療機関で働いていると、次々と患者さんが亡くなったり、自殺したり。深刻な事件も起きました。それで「中途半端な気持ちではできる仕事じゃない」と、遅まきながら気がついたんですね。自分も患者さんと一緒に自助グループに通うようになり、酒と薬を絶ちました。

以降、クリニックのスタッフとして、さまざまな新しい試みにかかわります。国内の医療機関や矯正施設でも実施されている依存症治療プログラムのモデルとなった、アメリカで開発された「マトリックス・モデル」や、「ボクシング・プログラム」を取り入れました。「ボクシング・プログラム」は、クリニック内にリングを造設し、元・プロボクサーのスタッフや現役プロボクサーの指導のもと、患者さんとスタッフが基本的なミット打ちからスパーリングの実戦までを行う本格的なものでした。

2008年には、日本における薬物依存症治療の第一人者である松本俊彦先生などと一緒に、同じ壇上でシンポジウムに参加することができました。職場で試みたプログラムの成果を学会に発表する機会を得て、学会誌にも論文を掲載。無資格・未経験で始めた仕事なのに、本当に幸運だったと思います。

 

その数月後、僕の父が脳梗塞で倒れて寝たきりに。介護の必要があって地元に戻ることになり、クリニックを退職。縁あって、以前から面識のあったNPO法人「友愛会」の吐師秀典理事長からお声かけいただき、両親の暮らす荒川の実家からも近く、高校生の頃からテキヤの仕事などで馴染みのあった山谷で働くことになりました。

 

その後も福祉の仕事を続ける上で、大きく感銘を受け心に留めている松本俊彦先生の著書『薬物依存の理解と援助』からの一節を引用します。

「いかなる法的拘束力をもってしても、

人の心を『変える』事はできない。

できる事は人に考える機会を与え、 本人がそれを望めば、

それを援助する場を提供する事であり、

あとは本人が『変わる』のを待つだけである」。

 

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