<インタビュー・長谷川たかこさん>
「足立区を、全国で一番の子育て環境に」
今、「異次元」と呼ばれる少子化対策が、次々打ち出されています。しかし、国の政策は、いつも通り一遍で理想論すぎ、当事者目線ではありません。私には4人の子があり、今も幼い子の子育て真っ最中です。そんな自身の経験を原点に、「足立区を、全国で一番の子育て環境にしたい」と、4期16年、足立区議会議員として奔走してきました。
これまで、子育て支援に関する、さまざまな請願を議会に提出し、たくさんの政策を実現。自分が言い続けてきた提言を、子育て中の親御さんに説明し、賛同を得て、何千という署名を集め、超党派の議員たちの賛同も得て議論を重ねて、形にしてきました。
民間発の「子ども版 地域包括支援センター」設立に向け、動き出す
1月29日、民間発の「子ども版 地域包括支援センターをつくろう会」を立ち上げました。地域で活動されている有志に声をかけ、20数名で構成。「ヤングケアラー」「不登校」「青年期相談」「生活困窮」「いじめ」「医療的ケア」「発達障がい」「外国ルーツ」など、子どもに関する多岐にわたる課題を包括的に対応するセンターを目指します。イメージは、「高齢者地域包括支援センター」の「子ども版」。
実は、すでに足立区で「子育て世代包括支援センター事業」は運営されています。保健予防課や区内各保険センターなどと「子ども支援センターげんき」が連携し、妊娠期から子育てまでの相談・支援を切れ目なく包括的に行うもの。しかし、制度の認知度が低く、利用者が少ない。また、例えば「いじめ」「不登校」などで相談を持ち込んでも、対応に時間かかかり、適切な機関や専門家につながりにくい。
助けを求めて助けてもらえなかったら、何の支援にもならないわけです。行政側が無理であれば、私たち市民がつくってしまおうと、この会を立ち上げました。メンバーは、子ども・親支援、いじめ、不登校、居場所づくり、児童発達、医療的ケア児などの分野のスペシャリスト。「自分たちで立ち上がろう」という情熱的な人たちです。まずは、その各メンバーが、各カテゴリーごとの専門分野の人たちを集めて分科会を組織し、何が問題で、どう解決できるかを深堀りする。その後、どういう仕組みをつくればいいかプランをまとめ、足立区、東京都や国に提案する予定です。
拠点は、ますは一般社団法人「チョイふる」さん(vol.23 代表・栗野泰成さん)が、提供してくれることに。栗野さんの「どんな境遇に生まれても、ロールモデルになる大人が傍にいることで、子どもは成長できる」という考え方に共感し、共に活動しています。
「政治」が身近にあった家庭環境で育つ
私は、1973年、神奈川県鎌倉市長谷で生まれました。幼い頃から「政治」が身近にあったといえます。父方の曾祖父・天本龍之介は、佐賀県本基山町長を30年勤めた政治家。母方の祖父・遠藤賢二も神奈川県鎌倉市薬剤師の初代会長で、政治活動をしていました。ただし、父親は野村證券に勤務していた会社員で、政治とのかかわりはありません。
私が政治の道に進むきっかけとなったのは、中央大学に通っていた4年生、21歳のとき。1993年、伯父が建設省で大臣官房審議官を務めていましたが、当時、新進党からお声がかかり、参議院の補欠選挙で佐賀県から出馬しました。伯父が参議院選挙に出ることとなり、私が佐賀県に行き、選挙活動を手伝いました。当時、新進党の愛野興一郎先生や、羽田孜先生(愛野先生や羽田先生はご夫妻でわれわれの面倒を見てくださり)はじめ、二階俊博先生らが毎日常駐して指揮を取り、まさに自民党との一騎打ちの政党選挙となりました。たくさんの国会議員と秘書が集まり、選挙は目を見張るほどすさまじいもの。選挙が終わり帰宅すると、複数の代議士から「秘書にならないか」とお誘いを受けましたが、当時、間もなく結婚するつもりだったので、すべてお断りしました。政治の世界にかかわれば、子どもを産んで、子育てなんて、とてもできないと思えたからです。
1996年、大学を卒業した23歳、法律事務所に勤務。同年に結婚して以降、出産から子育てまで、足立区で経験することに。
アイデアマン名市長の岩國哲人先生が、わが師匠
2番目の子が生まれた27歳のとき、心境が変わりました。「私の人生、このまま終わらせたくない。世の中に出て、何か貢献したい」という気持ちがわき上がってきたのです。
2004年、31歳のとき、かつてお誘いを受けていた当時衆議院・岩國哲人先生(元出雲市長)に、「お手伝いをさせて下さい」と手紙を書き送りました。すぐに連絡があり、議員会館へ。「明日にでも議員会館に勤めてください」と即、採用に。この職場で、雇用、介護、少子化、環境、教育、食育などの分野の政策立案と実務を行いました。
岩國先生は、私の師匠です。時間があれば資料に目を通される勉強家ですから、いろんなアイデアを思いつかれる。元は、出雲市の名市長です。温厚な方で、いつもにこやかでしたね。「国づくりは、人づくり」という教えは、私の指針になっています。
2年勤めて退社し、「もっと学びたい」と青山学院大学大学院に入学。ビジネス法務を専攻しました。そして、34歳のとき、統一地方選挙が、私の人生を変えました。
「子育て中の若いママ」として足立区議に初当選
住んでいる足立区は、衆議院だった城島光力先生の選挙区でした。当時、城島先生は朝の駅頭に立たれており、私もお話をさせていただいておりました。いつの間にか、岩國先生と城島先生が話をされていたようです。統一地方選挙が近づき、白羽の矢が飛んできました。
いつも私には、さまざまな夢があります。同時進行でいろいろなことをやって、その中で最適なものを直観で選択していました。あのとき、政治の世界がそうでした。
選挙活動を始めたときは、なんのツテもありません。街頭で訴えていたのは、「子育てしやすい街づくり」です。キャッチフレーズは、「生まれて安心 暮らして安全 歩いて楽しい足立区に」。この言葉は、今も名刺に記しています。
結果は、足立区史上初の得票数7830票のトップ当選でした。「子育て中の若いお母さん」が出てきたことが、区民のみなさんにとって、新鮮で、親近感を持っていただいたのでしょう。特に、同世代のママさんたちが、たくさん応援してくれました。また、スーパーの前でビラを配っていると、若い男性たちが声をかけてくれ、仲間の20人で、足立区全域に私のビラを撒いてくれたことも。ふだん政治とかかわらない人が、一緒に行動してくれたことが、何より嬉しかったです。
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