依存症は「病」。回復できる

依存症
志半ばに日本に帰国するも、依存症から抜けられず

実家に戻りましたが、アメリカに行く前に送別会をしてくれた友人たちには気まずくて帰国したことが言えません。しばらくして家を出て、湘南に住み、冷蔵庫工場で働き始めました。以後、引っ越しを10回以上、転職は20回以上しています。テキ屋、米軍基地、ライブハウスの店員、派遣の工員、早朝のビル清掃など…いろんな仕事をしました。

 

帰国して数年、ドラッグもアルコールもやめられない。もう「快感を得るため」「ハイな気分になるため」でなく、離脱症状による「苦痛からのがれるため」「マトモでいるため」に、依存行為を繰り返します。いつのまにか「手段」が「目的」になっていました。

 

今思うと、妄想などの症状も出るほどに。泥酔して、酒とトイレマジックリンを間違えて飲んでしまったこともあります。水道の蛇口から水をガブガブ飲んで吐く「胃洗浄」を自分で繰り返しましたが、しばらくは胃が痛かった。飲み込んでから気づいたっていうのが、なさけない。その頃、精神科医の斎藤学先生の『アルコール依存症に関する12章』という本を読んでいて、「全部当てはまる。オレはやっぱりおかしい」と思い始めていました。それで一端やめるんです。医療機関や精神科にも一切行っていないんですが。

 

20代の半ば、吉祥寺にある民族音楽ライブハウスで働いていた4年間は、飲んでないんですよ。その頃出会った友人は、僕を「飲めない人」と思っている。でも経営難で閉店することになり、スタッフの家でお疲れ様の打ち上げをしたとき、「まっ、ちょっと飲んでみよう」と、缶チューハイを口にすると、また元に戻ってしまって…。

 

知的障がいの子との出会いで、福祉関連の仕事に

もう自分が飲みたいばかりに、今度はバーテンダーになりました。面接で受かりましたが、何の経験もない。寿司屋と一緒で、0から覚えました。いろいろ学べて面白かったです。本式のバーテンダーになるなら、銀座のバーで何年かはボトルを拭いているだけといいます。でも自分のは、きちんとした修業じゃない。すぐにシェーカー振ったりしてる。

 

寿司屋もバーテンも、全部インチキ。ドラッグも酒も飲みまくって、モウロウと過ごしてる。真剣に生きてないんですよ。中学2年で薬物を使い始めた人の精神年齢は、中学2年で止まっているといいますが、自分も同じだなと。

 

毎週日曜日の午後、勤めているバーに、お子さんと一緒に来てくれるご夫婦がいました。旦那さんは、テレビに出るような有名な評論家です。車いすに乗る脳性麻痺で知的障がいのあるお子さんが、僕のことを気に入ってくれたみたいで。しゃべれないんですが、「ケンジくんのところ、行くかい?」とお父さんが尋ねれば、「うん」とうなづく。お母さんからは、「この子と、ちょっと遊んであげてよ」と頼まれて、お店の休憩時間に車椅子を押して一緒に児童館に行ったりしたこともありました。

 

福祉なんてまったく興味がありませんでしたが、その子がきっかけで、通信教育で勉強してみようと思ったんです。ホームヘルパー2級(現在の介護職員初任者研修)を取得し、在宅介護のバイトもするように。

 

当時、借金がかなりの額に膨れ上がっていました。まぁ、全部飲み代ですけど。それで朝はビル掃除、昼はホームヘルパー、夜はバーテンダーをやるようになりましたが、利子しか払えてない。

 

やがて、精神障がいのある方の在宅介護の担当になりました。女性のヘルパーさんが行くと、セクハラ問題があったり、家がひどいゴミ屋敷だったりする。男性のヘルパーさんでなければと、声がかかったわけです。台所で鍋の蓋を開けると、黒い何かがびっちりこびりついていて、よく見ると動いている。未知の生態系でした。正直、きつい仕事です。でも、「精神障がいって、なんだろう?」と興味を持って、精神障がいの講習を受けたんです。

 

その頃、僕は仕事を探していて、講師に都市型の精神科クリニックを紹介していただきました。依存症に特化した通院治療プログラム「デイケア」「デイナイトケア」を行っているところです。当時、それを実施している医療機関はほとんどありませんでした。

 

人生初の就職先で、「依存症」に向き合う

電話で問い合わせたら「PSW」のお手伝いをしてもらいます」と言われ、「やりがいのある仕事ですね」とは答えたものの、「PSW」が分からない。後で調べて、「精神保健福祉士のことか」と。面接に行くと、なぜか採用。2004年、36歳で、初めて就職しました。

 

採用面接のときに施設見学。1階は事務所、2階「シルバー」、3階「シニア」のフロアで、おじいちゃん・おばあちゃんに「こんにちは~」なんて挨拶していますが、4階「アルコール」から雰囲気が変わってくる。最上階の「アディクションフロア」に辿り着き、「(アコーディオンカーテンの)隙間から見学してください」とスタッフに注意されて覗くと、元受刑者、元ヤクザ、元暴走族など、強面の人たちがたくさんいて面食らいました。

 

入社してすぐに、「アディクションフロア」の担当スタッフに。アルコール、薬物の他にも、ギャンブル、リストカット、摂食障がい、いろんな症状の人を担当することになりました。ただ僕の場合は無資格だったので、他のワーカーさんと比べて給料も安い。最初のうちは白衣も着させてもらえなくて、ユニクロのポロシャツで働いていました。研修に来る実習生は、僕のことをよく患者さんと間違えてました。

 

実は、働き始めて1年ぐらいは、お酒も飲んでいたし、夜はバーテンダーのアルバイトを続けていました。昼間は酒を飲ませない仕事をして、夜はバーテンダーとして酒を飲ませる仕事をしていたわけです。自分が依存症なのは隠していましたが、患者さんにだんだんとバレてきて、「ケンちゃんも、薬やってたでしょ」と言われるように。それである患者さんが、依存症者の自助グループに連れて行ってくれたんです。普通は、スタッフが患者さんを連れていくんですけどね(笑)。

 

友人や患者さんの死をきっかけに

自助グループで親しくなった薬物依存症の仲間が、アルコールを飲んだことが引き金になって、「フラッシュバック」を起こし、ある深刻な事件を起こしました。元暴走族で、ケンカっぱやいんですけど、ふだんは優しくていい奴だったので、ショックでした…。

 

また、勤めているクリニックでも、次々と依存症の患者さんが亡くなるのを目の当たりに。悩みを僕に打ち明けていた30代の女性の患者さんが、自死してしまったんです。自分の父親宛ての遺書の小さな紙切れに、こう書いてありました。「生き方が分からない。知りたくもない。これからも、私は死に続けるよ」。

 

こうしたことが重なって、中途半端に今の仕事をやってはいけないと気がついたんです。自分自身が「クリーン」になり、薬物やアルコールをやめよう、そして依存症のことを学ぼうと真剣に決意。入社した翌年、2005年の3月21日に「3・2・1」で、やめました。

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