依存症は「病」。回復できる

依存症

 

<インタビュー・田中健児さん>

寿司屋の実家で、近所の大人の姿を見て育つ

酔っ払いに囲まれて育ちました。実家は、荒川区にある下町のちっちゃな寿司屋です。カウンター席があって、テーブルが2、3台ぐらい。まさに昔の寿司屋さんで、一種のコミュニティーなんですよね。お客さんは近所の顔なじみばかり。寿司を食べに来るのではなく、テレビでナイターを見たり、ボクシングを見たり。店主の親父が銭湯に行くと、勝手に冷蔵庫を開けてビール飲んで、お金を置いて帰っちゃう。

 

1階が店舗、2階に両親と4歳年上の兄、僕の4人家族が住んでいる。店が生活の場なんです。毎晩、お客さんが飲んでいるカウンターの傍らで、ハンバーグや卵焼きなんかを食べて。今思えば小学生の頃から、「ケンボー、ビールの泡、なめてみるか?」と勧められることもありました。

 

お酒とドラックに開眼し、酩酊した青春時代

中学時代は陸上競技をやっていて、スポーツ少年でした。中学3年の時、駅伝の都大会で優勝したんです。3年間、朝から晩まで走っての結果なので、達成感はありました。それでホッとしたか、高校入学まで間のちょっとした時期、友だちと集まり、実家の2階でお酒を飲んだんです。コーラで割ってがぶ飲みし、泥酔して意識を失いました。もう最初からすごい飲み方をしちゃった。

 

高校1年の頃には、普通に飲んでいましたね。中学とはうって変わって、軽音楽部、ロックバンドの同好会みたいのに入って、友だちと飲み会もやっていました。

 

高校2年のとき、卒業する軽音楽部の先輩から、「オレが勤めてた居酒屋のアルバイトをやんないか」と声をかけられ、引き受けまして。足立区の赤提灯でしたが、学校が終わったら学生服で直行し、座敷で白衣に着替えて店に出る。夕方5時から夜11時まで働いたかな。店が出してるのは、チューハイが多かった。それをお客さんが、「飲めよ」とおごってくれる。店の売り上げになるので「いただきます」って、もうガンガン飲むわけです。しかも自分で濃いめにつくって。店を閉める頃には、完全に酩酊してますよね。

 

店に来るお客さんは、ロックバンドをやっている人が多かった。年代でいうと、1970年代のヒッピーの下の世代で、僕らより上の人たち。ロン毛で、社会的なメッセージを持っていて、ラブ&ピースの名残りをそのまま引きずってるような。そのお客さんから、大麻を分けてもらって、仲間と初めて吸ってみたんです。五感が研ぎ澄まされ、音楽がすごくキレイに聴こえ、何を食べても美味しくなる。「時間」が変容して感じられることが面白く、すぐにはまりました。

 

音楽の方も、どんどん目覚めて大好きになったけど、正直言って演奏はあまり上手くならない。それでも、ビートルズ、ローリング・ストーンズに夢中だった。生まれて初めて見たロックコンサートは、「ショーケン」こと萩原健一。RCサクセションもファンに。ドラックをやるようになったのは、憧れのミュージシャンをまねたこともあります。

 

進学・就職せず、音楽とドラックの国・アメリカに渡る

進路相談の時、担任の先生に呼ばれて、「田中はどうすんだ?」って聞かれても、やりたいこともない。高校を卒業してからは、進学も就職もせず、夜は居酒屋、昼は喫茶店のバイトをやり、「プー太郎」してました。今でいう「フリーター」です。

 

1年たった頃、「アメリカで寿司屋をやらないか」という話が突然来た。もう夢が叶ったという感じですよ。当時は麻薬問題で来日できなかったローリング・ストーンズのコンサートを、現地で見られると思って。そして、本場のドラックはどんなものかと。

 

決めてから行くまで、2カ月ぐらいしかありませんでした。パスポートを取って準備して、先方の日本人オーナーとは、電話で1回話したきり。実家は寿司屋だから、寿司も握れると思ったようですが、こちらは何もできない。魚を触るのも好きじゃないし、英語もしゃべれない。

 

いざ行ってみれば、キッチンで下働きしていた多くは不法入国してきたメキシコ人でした。寿司が握れず、英語ができないのは同じでしたが、自分は寿司について感覚的に分かるし、日本語もできる分、仕事を覚えやすかった。

 

オーナーはすごくいい人でした。彼の家に住まわせてもらい、朝晩一緒に車で送迎も。しかもご飯まで食べさせてもらって。給料が月1000ドル(14~15万円ほど)で、そこそこ生活できる。

 

薬物天国の環境に、どっぷり浸って過ごす

1980年代後半ですから、「クラック」という依存性の高い結晶状のコカインが出回っていました。安くてめちゃめちゃ効くけど、あっという間に効き目が切れる。コカインはお店の隣にあるフライドチキン屋で、売人のメキシコ人が売ってました。素晴らしい環境ですよね(笑)。開店前にお店の更衣室でドラックを吸い、切れたら隣の店で買うわけです。1グラム80ドルだから、1回で給料の10分の1ぐらいが吹っ飛ぶ。

 

最初は、分けてもらっていたのが、自分で買うようになると、家で1人でやるようになり、同時にアルコールも飲み出す。だんだん依存性が高まってくるわけです。

大麻も日本のものとはまるで違う上質のものでした。

 

警察沙汰の大失態で、恩人を裏切る

1人でアパートを借りて住み、何カ月か経って、ルームメイトが見つかりまして。少し年上の白人の男なんですけど、店の同僚のウエイトレスの彼氏だった。彼女に逃げられ、「1人じゃ家賃払えないから、一緒に住んでくれ」と。そいつは売人ではないけれど、なぜか家にドラックがいくらでもある。朝から晩までやるようなっちゃって。

 

ルームメイトが保険金詐欺まがいのことをやり、1万ドルぐらいの大金を得たんです。コカインと大麻樹脂を大量に買いました。そうなると、使う量もどんどん増えていく。わけの分からない錠剤も飲んじゃう。彼が、「おまえ最近、飲み過ぎだぞ」って心配するほどに。

 

ある日、家の2階のトイレに1人こもって、いくつかの薬物をやり、テキーラもガンガン飲んでいました。外へ出ようとすると、ドアが壊れて開かない。まともな精神状態じゃないから、おびえしまう。思わずサッシ状の窓ガラスをはずして外に出て、屋根に登りました。つたって玄関に行くつもりだったんです。パンツ一枚の姿で、見上げた夜空がキレイでした。『ホテル・カリフォルニア』を歌いながら屋根の上を歩いている時、パトカーが通りかかっちゃった。警官に引きずり降ろされ、手錠をかけられ、ピストルを突き付けられたときのヒヤリとした冷たい感覚。パトカーの中に連れ込まれ、懐中電灯で瞳孔を見られたのは鮮明に覚えています。

 

家で栽培していた大麻は押収されましたが、幸いコカインは全部吸ってしまって残っていなかった。それで解放されたんです。コカインが見つかっていたら、服役することになったでしょう。ラッキーでした。

 

でも、お世話になったオーナーや、その奥さん、店のみんなに大変な迷惑をかけました。特にあるスタッフの奥さんには、「なんて馬鹿なことをしたの!」と怒られました。何かもう嫌になって、「日本に帰ります」となりました。普通にやっていれば、やがてグリーンカード(永住者カード)を取得していたはず。何も努力しないまま、良い人にも巡り合い、夢が叶ったのに、それを自分でダメにしたわけです。結局、アメリカには、19歳から21歳までの1年半しか暮らせませんでした。

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