「全力子ども」のエネルギーが爆発する舞台

アート

<インタビュー・KAEDEさん>

娘にダメ出しされて修正したチラシが大反響

今日の夜が、ラスト稽古なんです。明日、小屋入り(公演でホールに入る)になりますから。

…そうですね、最近、足立区外から来る子も増えてきたので、平日だと夕方5時半から8時まで、どうしても夜のお稽古になってしまう。ちっちゃい子は早く帰したりして、調整しています。5歳から12歳までの幅なので、なかなか一律にとはいきません。舞台前にしても、お客さんの前に立つイメージが分からない幼い子もいれば、プレッシャーでつぶれちゃいそうな子もいます。

 

ところで今回、配布したチラシに大きな反響がありました。特に地域の子どもたちにとっては、衝撃だったんでしょうね。同じ年ぐらいの子が、アイドルの衣装を着飾り写ってますから。後で「ほしかぜ」の子たちに聞いたら、クラスで配られると、5分ぐらいはみんな黙って表も裏も見ていたとのこと。小学校でよく配られる文化庁のチラシは、「あ~いつものね」とスルーされるそうです。実は、当初私の図案も「(大人目線で)つまんない~」と、娘で昨年「ほしかぜ」を卒業した「浅漬け」(ステージネイム)にダメ出しされて。それで子どもたちにアイデアをもらって、今の形になりました。チラシの裏のイラストは、卒業生で中一の子が描いてくれて。

 

中学時代に立ち上げた劇団に「居場所」見出す

私の父親は、ずっと舞台監督をやっていました。幼少期から、劇場に行くのは当たり前。日常生活の中で、「稽古」と「本番」が介在している。「あぁ、今、お父さん稽古中だよね」みたいな。成長するにつれ、それが一般的ではないなということが分かってきた (笑)。

 

思春期は、親に逆らって「絶対演劇には行かない!」と決意したことも。家業として継ぐのが、なぜか悔しかったんです。それで一時は、映画業界に行くことも考えました。でも、やっぱりね、落ち着く場所が「劇場」でした。

 

中学生時代に、お世話になったシスターがいまして。国際ボランティアの代表の方なんですけど、私たち若い子たちに表現の場を与えてくれたんです。「時間と場所を提供するから、好きなことやってもいいよ」と。先日の「未来の実験室」をやってくれた「あだち子ども支援ネット」の大山光子さん(vol.15、32)と似ていますね…。そこで14歳の夏休みに、学生たちで劇団を立ち上げたんです。舞台に立つ自分を映像で見たとき、「アタシ、めちゃくちゃかっこいいじゃん!」と。

 

学校では、教室の隅で、日本文学を読みながらウォークマンを聞いていて、誰ともしゃべらない子でした。「お昼ご飯、グループで食べていいよ」と言われても、「困る」みたいな。学校の外に劇団という「居場所」ができて、初めて自分が好きになれた。それがあったから、私はたぶんやってこられたのだと思います。

 

(娘のちゅんちゃんがむずかり出す。KAEDEさん、抱き上げて、顔を近づけあやす)。

 

出産後に劇の道を中断し、「ヤクルトレディーNo.1」に

親元を出ると、フリーターをしながら、小劇場に出る役者生活が続きました。そのうち、「セリフをしゃべるより、踊った方がオーラある」と周囲に言われるようになり、自然と踊りの道に。バレエもやってきてて、身体表現は好きでした。中でもショービジネスは、すごく肌に合っていたようです。

 

23歳で結婚、出産しても、しばらくはショーの仕事も、昔のご縁による舞台も続いていました。しかし、本番が入ると、1カ月拘束といった地方公演や巡業があったりする。やはり、子どもがいると、こなしていくのは難しい。それでひとまず、友人の紹介で「ヤクルトレディ」をやってみることに。とにかく「仕事」がしたかったこともある。慣れない育児で疲れていたので、外に出て働きたかった。また、ヤクルトの保育園が、「なんて素晴らしいシステムだろう!」と思いまして。上の2人の娘が、まだちっちゃいときでしたから。

 

何でも「てっぺんとるぞ!」となるタイプなので、始めたら「新人東京売り上げNo.1」になりまして。営業に向いていたんでしょうね。みんなに可愛がってもらって、担当地区だった浅草のアイドルでした(笑)。

 

演劇の世界は華やかだと思われがちですが、つらい部分の方が多い。そういった意味では、業務内容が決められている仕事はラクでした。演劇は決まりがなく、自分で編み出していかなければいけない。特に私は、作・演出もしていたので、お客さんから「つまんねぇよ」みたいなヤジで、メンタルをやられたり。ヤクルトは、私がつくったものではないし、けなされても悔しくない。そういう割り切りができたから、楽しくグイグイ行けたのかなと。

 

アニエス・ベーに入社し「接客No.1」を獲って一区切り

夫の伊勢さんとは、一度離婚しました

(経緯は、伊勢さんが立ち上げたサポートファンディングのページ

https://syncable.biz/campaign/3455 に書いています)。

 

その後、役者として何本か舞台に出たんです。初めてのアングラ系の作品で、その世界の大御所である人のところの舞台に立ったんですけど、燃え尽きたというか。「あっ、もう大丈夫」って、演じることの欲がストンとなくなった。

 

「同時に、就職したことないぞ」と気付きます。29歳でしたが、30歳になる前に、人生初めての「就活」をしたいと思ったんです。どうせなら好きな会社じゃなきゃと、大手アパレル会社アニエス・ベーを受け、無事に入社。そこでも全力で働きました。2年目には、「接客コンテスト全国ナンバー1位」になり、パリの本社に行かせてもらえて。入社時の夢が、アーティストとして尊敬するアニエスご本人に会うこと。それが叶ってしまった。

 

「私のやってきたことは、舞台以外でも活用できるんだ」という自信を得て、自分に納得できて一区切りついたんです。

 

「泣く子」のエネルギーを、そのまま舞台にのせればどうか

伊勢さんと再婚。そのうち、彼が「子どもの劇団をつくって、そこで劇をやればいいじゃん」と勧めていたことを思い出します。離婚する前のことで、当時はまだ自身で役者をやりたかった。最初に聞いたときは、「それって何? 子どもたち集めて、『桃太郎』とかやるの?! つまんないんだけど~。絶対やんない!!」と反発。よくある子ども劇団の劇って、「子どもって、これぐらいしてあげないと分かんないよね」と上から目線でつくってる。分かります? 私、自分が子ども頃に、それを見せられるのが嫌いで。「バカにしないでくれる?!」みたいな。子どもだって、汚いものは汚い、怖いものは怖いって見せてあげた方がいいし、悪者は悪くていいわけだし。「子ども騙し」で騙すことが一番許せない。

 

それに子どもが劇をするって、ハードルが高いんです、やっぱり。日本語を覚えたてで、滑舌が悪い。まだ体の大きさが足りず、声が十分に出ない。「可愛い」で良しとするのが「学芸会」じゃないですか。だから、「子ども劇団」と言われても、しっくりこなかった。それに私、元々子どもが苦手なので(笑)。

 

こうやって赤ちゃん言葉で話すのは、うちの子どもだけでしゅ…(ちゅんちゃんの頬をつつく)…もうメロメロ…。

 

気持ちが変わったのは、ふと思いついたことから。スーパーとかでギャンギャン泣いている子がいるじゃないですか。あれはすごいエネルギーで、大人には出せない。だけど、例えば、あの泣いている子どもを舞台に上げる。セリフをしゃべらせたら、超下手くそ。でも、「泣いてていいよ」と。で、照明さんが、その子に、すごくいいサス(照明の光)を当てます。音響さんが、すごくいい音を鳴らします。それは「パフォーマンス」になるじゃん! と。子どものエネルギーと、プロの技術の掛け合わせで、ものすごくいい、今まで見たことのないものが仕上がるんじゃないかなと。あっ、それなら私、つくりたいし、観たいと思って。だから、「ほしかぜ」は、「パフォーマンス集団」なんです。「劇団」ではない。あくまで表現は、何でもいいよ。あなたのエネルギーの塊を料理して、パフォーマンスに変えてあげるよと。

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