かつて学校は、おおらかだった

教育

<インタビュー・Hさん>

パソコンが来て、学校が変わった

私、ずっと小学校の教員でしたから、どんな教科も教えました。1年から6年まで担当を受け持ちましたが、どの学年も楽しかったです。「あのとき、こういう風にすればよかった」と後悔することはあっても、それはそれで良い思い出になっています。定年まで勤め、後の5年間は嘱託として勤めました。

 

かつての同僚で、今も現役の人に話を聞くと、学校もずいぶん様変わりしたなと感じます。特に、ここ2年間、教育現場にパソコンなどの機器が、すごく入ってきてるんですよね。私が嘱託だった20年前頃に、学校にパソコン教室が一つできて、40台設置されました。生徒は、1カ月に2回位割り当てられて使うぐらい。職員室では2、3台を、教師たちが共有する程度。

 

嘱託も辞めた後ですから、12年ほど前、教員には1人に1台与えられましたとのこと。すると、教員同士の会話が少なくなったそうです。どんなことも、パソコンに入れてしまうからです。それ以前、私たち教員は、昼休み時間や放課後、「あの子のいたずらはひどいけど、家では甘えんぼみたい」「お父さんが失業して、大変らしい」などと、顔を合わせて話していたもの。しかし現在は、みんな機器に情報を打ち込むばかり。その画面に、「人」はいません。

 

膨大で、細かすぎる報告書

忙しいのもありますよね。私の頃も忙しかったですが、今は「報告書が半端じゃない」と聞きました。教育委員会に出すものですよ。教師としての目標を書き、それがどこまで達成できたか自己申告する。また、生徒一人ひとりの学力テストや体力テストの結果を記録。とても細かいんです。学力テストであれば、国語なら文章力や読解力のレベルまで数値化する。体力テストであれば、何秒で走るか、ボール投げや幅跳びの距離などもです。平均点が出され、そして、学力・体力向上のためにどんな方策が必要かの提案が求められる。学期も半ばになれば、どこまで目標が達成できたのか、達成できないのは、どんな問題があるのかを分析して、解決策をまた提案…。

 

私なんか、そんなことやっても意味ないと思うんですけどね(笑)。みんな、科目に得意不得意があるわけで、できないことがあったからって、その子がダメということはない。それなりに大人になっているんだから。体力のことなんて数字がどうというより、もっと子どもが、心配なくのびのび遊べるようにすることの方が、よっぽど大事じゃないかなと。

 

萎縮してしまう若い教員

これも嘱託時代です。大学を卒業して教師となって2年目ほどの若い女性の先生がおられました。経験もないので、担当された小学2年生のクラスが、ぐちゃぐちゃになっていたんです。その頃、私は、週に2回だけお手伝いに行っていましたが、1回は彼女のクラスに張り付きました。教室から飛び出しちゃう子を、追っかけたりしましてね。

 

その先生は、すごく悩まれていた。ある日、風邪をひいて体調を崩され、顔が真っ青なんです。「私がクラスを見てるから、あなた、保健室で少し休んでいった方がいいんじゃない?」と声をかけたら、「私、校長先生から、『子どもと外で遊ぶように。それが大切な勉強になるから』と言われたので。そうしないと叱られます。窓から見ていらっしゃるから…」と答えるので、びっくりしてしまって。私の若い頃、校長先生から「何々しなさい」なんて言われたこと、なかったですから。いゃあ、どうなんでしょう…教員の目が、子どもより、校長の方に向いちゃっているというか。

 

教育現場に持ち込まれた「出世主義」

最近、学校がお休みの土曜日、地域の小学生の勉強を、ボランティアで見ています。何人かでチームを組み、1時間半程で交代するんですが。そこで50歳になって教員免許を取得した人に出会いました。これまでは非正規の教員をしていたそうです。彼女から、晴れて正規教員となったときに受けた教育委員会の講習の様子を聞いて、びっくり。教育委員会の指導主事の方が、会場で、何十人かの新人教員に向かって、「みなさん、ライバルを見つけて、勝ってください」と言われたそうです。なんに勝てって?…「出世しなさい」ということです。主任制度になって、役職が増えましたから。

 

昔は、新人も定年間際の教員も、経験や力量は違えど、立場としては平等でした。だからか、教員たちに一体感がありました。夏休み中の教員の勤務は、研修―職場から離れた場所でも自宅でもOKでした。校長先生は、夏休直前、教員に向かって、「学校のことは忘れて、大いに見分を広めてきてください。日本中、あちこち旅行するのもよし(当時は、海外旅行は許可されてませんでした)。いろんな人情や、美しい風景に触れ、美味しいものをいっぱい食べて、人間力を高めてください」と言ったんです。今は、ライバルを見つけてなんて…。

 

下町の小学校は、ハプニングいっぱい

下町の小学校で、17、8年ほど勤めていました。貧しい地域で、生活保護を受けているご家庭、受ける寸前のご家庭がたくさんあったんです。遠足のお弁当を持ってこられない子がいたりすると、私たち教員が自腹を切って、お弁当を持たせたこともありました。インフルエンザでお休みしていたのに、母親が働きに出てお昼が食べられず、お腹を空かしてパジャマ姿で学校に来ちゃった1年生もいました。大変な子が、いっぱいいたんです。

 

2泊3日の修学旅行から学校に戻り、子どもたちを家に帰したときのこと。職員室で、校長先生と教員が、「はい、お疲れさまぁ~」とビールを開けようとしたら、窓から顔をのぞかせる6年生の男の子がいたんです。「あらっ?」と思ったら、隣のクラスの子。担任の教員が、「どうしたの?」と聞くと、「うちに誰もいない。鍵がかかってる」と言う。担任が、その子と家に行って、窓ガラスの向こうを覗くと、冷蔵庫1個、置いてあったきり。一人親のお母さんと、おばあさん、弟と妹の姿がない。しかたがないので学校に連れ帰り、机の上に広げていたお寿司を食べさせました。教員みんなでどうしたものかと頭を抱えていたところに、お母さんから電話。「近所中に借金をして、いられなくなって夜逃げしました」と打ち明けられ、「駅前の公衆電話ボックスに、子どもを連れて来てください」と頼まれる。教員が車を持っている時代ではないので、タクシーを呼びましてね。「これ、お母さんとみんなで食べて」と、お菓子やらをパックに詰めて渡し、担任が送って行きました。

 

そんな職場だったんです。だから仕事量もとても多い。他の学校に変わってみて、この学校の教員には、給料を3倍上げても惜しくないと思いました。でも、充実していました。いまだに、10人ぐらいの卒業生と、年賀状のやり取りしていますよ。

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