「公民館的」な学びで、地域づくり

教育
学校教師の道外れ、「社会教育」に目覚めた大学時代

僕は、学校が大好きな人間だったので、子どもの頃から学校の先生になりたかった。本当は教育学部のある大学に行くつもりでしたが叶わず、地域政策学部で教員免許がとれる高崎経済大学に入学。「教員になるための勉強だけでいい」と一心にやっていたら、櫻井教授に出会ったんです。

「学校だけが教育の現場じゃない。地域の教育や学習の場こそ、育てていくことが大切なんだ」という講義を、当初理解できませんでした。しかし、間違って櫻井ゼミに入ったことから、「社会教育」の世界に足を踏み入れ、抜けられなくなりました。

 

日本のフィールドワークでは、特に沖縄での地域づくり、市民活動に魅了。時間の流れも違うし、個性ある人が多い。その地で最初に調査したのが「公民館」だったんです。

 

那覇市の若狭公民館では、ちょうど「シングルマザー」をテーマにしていました。繁華街の若狭地区では、「夜の街」でたくさんのお母さんが働いていますから。行政もなかなか手だしのできないような地域の見えづらい課題を取り上げ、解決に取り組んでいくプロセスを目の当たりに。

 

メンバーは、自治会やNPO、地域の有識者、住民など、さまざまな人たちで構成されています。公民館の職員は、音頭は取らず、裏方として支える関係性も絶妙だなと。

 

繁多川公民館は斬新で、「エジプトに公民館をつくろう」という活動をしています。地域にエジプト人の方がおられ、「アラブの春」以降、本当にこの国が民主化したのかと問題提起。「じゃぁ、地域の人たちが話し合う場、公民館を」となりました。

 

カンボジアのCLC(地域学習センター)で文字学ぶ女性たちに出会う

大学時代、半年に1度は、東南アジアに行くというライフスタイルでした。最初はベトナム、大学3年の後半ぐらいからカンボジアのCLCを調査します。CLCは「コミュニティー・ラーニングセンター」で、直訳すれば「地域学習センター」。ユネスコ協会連盟が東南アジアにたくさんつくった組織です。

連盟から偉い人が来て指導するというのではなく、そこに住む地域の人が、自分たちの課題解決のために自ら運営します。

 

訪れたのは、カンボジア北西部の州都シェムリアップから、車で1時間半の集落。途中、街灯もないようなところです。CLCは、村長の家の2階の広間で活動していました。夜、次々と地元のお母さんたちが集まって、州都から呼んだ先生に文字を学んでいる。なぜかというと、学校に行ったことがないので文字が読めず、昼間の農作業で困るからです。肥料が届いたときに、品名や説明文が分からず、手あたり次第撒いていくしかない。農作物を効率的に生産するためには、読むことがどうしても必要に。彼女たちにとって、「学ぶ」ことは、生活に直結している。

 

この国では、かつてポルポト政権により、国民の1/4が虐殺。多くの有識者が殺され、社会基盤が失われました。そこで生き残った人たちが、「地域で本当に大切なものは何か」と、一からみんなで話し合いながら、復興を進めてきたわけです。このCLCの活動を目の当たりにすると、まさに戦後日本の「公民館だ」と思ったのです。

終戦直後、「公民館構想」を立ち上げた文部省課長・寺中作雄

1945年、戦争が終わった後、混迷の時代を支えたのが、「社会教育」という考え方でした。

社会教育法では、「学校教育以外で行う組織的な教育活動」を指します。地域のことを考える学びなんです。

 

当時、文部省公民教育課長の寺中作雄という人物が、「社会教育」を強力に推し進めました。その実現のために、「公民館構想」を掲げ、全国に公民館をつくったのです。当時、彼は、公民館を、復興のための地域づくりの拠点として位置づけました。産業・経済・生活にかかわること、具体的には職業訓練、娯楽、結婚式など、何でもそこでやる。「教育投資論」では、上からのベクトルで統制していきますが、公民館での社会教育は、地域の人が集まって学習してベクトルを下からあげていく。僕は、「教育」より「学習」という言葉が好きですが、学び合うことから、統制に反抗するものが出てくる。

 

特徴的なのは、公害問題。地域の婦人たちが公民館と連携して、経済成長の中での工業化で環境が汚染されていくことに対して、「本当にこれでいいのか」と問いました。調査しデータを集めて警鐘を鳴らし、行政を動かしていった経緯があります。

 

日本には、すべの市町村に公民館が存在します。それも市町村の中央公民館の下に地区公民館、さらにその下に自治公民館が無数につくられました。これだけ公民館が整備されているのは日本だけ。ヨーロッパの研究者が日本を視察した際、「公民館って、何なんだ!?」と驚くわけです。

 

「社会教育」から、個人のための「生涯学習」に転換

しかし、日本の公民館は変わってしまいました。地域のあらゆることをやる拠点だったのが、1970年代になると「社会教育だけすればいい」と、やせ細っていきました。さらに80年代には、「社会教育」から「生涯学習」に大転換します。「個人」のニーズに合わせた「生涯学習」で難局を乗り切ろう、地域・会社・家族といった組織でなく「個人」を大切にしよう、となりました。陣頭指揮を執ったのは、当時の総理大臣・中曽根康弘です。やはり文科省ではない。それで公民館は、趣味や教養、サークル活動などといった、個人のための「教育サービス」を行う場となりました。

 

欧米由来である「生涯学習」は、素晴らしいものだと思います。ただ、バブルが崩壊して経済が衰退し、地域社会が弱くなって以降、リスクが個人を直撃するようになりました。社会学者のウルリヒ・ベックは、この状況を『危険社会』という本で指摘しています。産業社会が地域や家族を解体し、「個人」がばらばらに放り出されて孤独になる。そうした時代に、「個人」の学びだけを重視する方向性に、危うさを感じています。

 

今はこの「生涯学習」よりも、戦後にあった「社会教育」に、もう一度立ち帰ろうというフェーズにあるのではないかと思うのです。いや、「生涯学習」と「社会教育」をうまく融合させた「第三の学習」をつくり出さないといけないのではと。

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