公務員だからつくれる支援の「形」

行政
悪徳業者とモンスターペアレントに鍛えられる

…ええ、時間は大丈夫です。経歴ですか?…

私は、埼玉県草加の生まれの草加育ちです。父親は、自営で電気工事店をやっていて、仕事を請け負っている役所にいつも出入りしていました。そんなこともあって、大学在学中から「公務員になれ」と。「子どもの仕事は、親が決める」という昭和親父だったので。

 

忘れもしませんが、公務員の採用面接試験のこと。私が自分の意見をハキハキ言うからなのか、面接官は「あなたみたいな人って、公務員には向いてないです!」と否定してくる。その場はいろいろ言いつくろって、なんとか採用となりました。でも、今から思えば、ずいぶん失礼な面接官だなと。

 

一番最初の勤務先は、足立区の総合スポーツセンターで、2年間働きました。千葉県庁職員の夫と結婚することになり、彼の通勤のことを考え、千葉県に近い江戸川区に異動を希望。それで江戸川区役所情報政策課に配属されました。当時の江戸川区は、自分たち職員でシステムを組んでいくといった職場でした。しかし、すぐ妊娠してしまって業務から外れ、出産で育休を取ったりしつつ、3年勤めて次の職場に。

 

消費者センターに移り、相談員の事務補助を担当。

人間には悪い人はいないと思っていましたが、勤めるうち考えが変わりました。以前対応した悪質な業者から電話が入り、「なんだお前、余計なことしやがって!」「今から行ってやる!」などと悪態をつかれることも。悪い人って、いるんだぁと。それまで、新聞の勧誘を断れない人間でしたが、鍛えられて強気になり、勧誘電話をはっきり断れるように。ここでは3年働きました。

 

4番目の職場は、保育課で、保育園の入園の窓口を任されました。当時、全国的にも待機児童が社会問題となっていて、江戸川区の待機児童の数も膨れ上がっていました。クレームもすごく、入園できない通知を受けた保護者が怒鳴り込んできて、「このまま入園許可が下りるまで、動かない!」という人もいるほど。私はこんな性格なので、いつもがちんこで相手とやり取りします。それで、脅迫めいたクレームを受けることもありました。当時、3人目の子がお腹にいたんですが、「上坂さん、妊娠されてるんですよねぇ…」と窓口で言われたときは、「何かされるのか…」と、少し身構えました。

 

仕事量も多く残業の職場でしたが、あるとき、業務の効率化を図ればいいのではと気づいたんです。エクセル操作が苦手な人も使えるフォーマットを提案し、それが受け入れられ、作業がスムーズになりました。それがきっかけで、どうしたら仕事がうまく回っていくかを常に考えるように。また、職場の一体感を味わえた5年間でした。

 

ちなみに育休は、消費者センター、保育課を合わせると、合計3回取っています。

 

生活保護ケースワーカーの仕事を通して「福祉」に開眼

保育園の窓口を担当することで、福祉の現場を少し知るようになり、次は生活保護のケースワーカーをやりたいと、生活援護を志願しました。「一人親方」的なところがあって、自分のペースで仕事の組み立てができるので、むしろ子育て中にはいいかなと。残業もなく、うまく回しながら、3年勤めました。

 

このケースワーカーの仕事で、「福祉」に目覚めてしまったでんす。かかわった人を、ほっとけなくというか。私たちの間では、「福祉大好き症候群」といってます。生活援護から異動するとき、「もう二度と戻るものか!」と出ていくんですけど、そのうち恋しくなって、「やはり、あの仕事は面白い」となる。そういう人は、たくさんいるんです。一生懸命やっていると、それに答えてくれるケースがいっぱいありますから。

 

例えば、80代後半の好々爺という感じのAさん。1人暮らしで、高齢者対応のサービス入れながら、生活保護を受けられていた。何回か訪問して、話をうかがっていました。

ある日、Aさんは、突然事務所にやって来て、「今日、あなたに大切な話をしたい」と言われます。「今まで、誰にも言わずに黙っていたんだけど、10年前に亡くなった妻が遊女でした。献身的でいい妻だったが、そのことを周りには隠していた。私も先があまり長くない。あなたに、それだけを話しておきたかった」と。なにかこう、自分を信頼してくださったのが嬉しくて…。

 

発達障害の男性が抱えた生きづらさを支えきれず

大人の発達障害を抱えた男性のBさんは、生活保護を受けていましたが、区役所内で大声騒ぎして、手が付けられない。行政に対して色々不満を抱えていて、関係部署にクレームを繰り返していました。でも、私には、それを言いませんでした。

 

「ぎっくり腰になっちゃったんです」と、彼が家から電話をかけてきたとき、本人の代わりに食材を買って立ち寄ったりしました。お会いした際にも、「発達障害のことを良く知らないので、先日、研修に行ってきました。非言語な部分を理解するのが難しいですよね」なんて話をしました。するとBさんは、「こういう本があります」と、発達障害の本を教えてくれました。後日、「買って読みました」というと、とても喜んでくださって。「自分が、苦しんでいることを、理解してくれる人がほとんどいない」と言うんです。生きるのに、すごく苦労している。「みんな、自分を問題児扱いばかりにして…」と思いつめてて、それが切なかった。

 

生活援護を異動し、しばらく会わなくなった日、区役所本庁で、彼が大声でクレームを言ってる姿を見かけました。でも、私のところに来るときは、ちゃんと番号札をとって座って待っている。そして、「近況報告に来ました」と。そのとき、「実は、就職の話があって、迷っていてるんです。自分の性分を考えると、定職につくことが不安で」と苦しそうに言われました。

 

何か月か後、不安が的中したのか、Bさん、外で暴力事件を起こして刑務所に入ってしまって。それを聞いたとき、「あぁ、なにか、もっとできることあったんじゃないか」と、すごく悔やまれて…。

 

それからも、なにか窓口等で大騒ぎしている人がいると、すぐに飛び出して声をかけています。「どうしました?」かと。大変な人に、むしろかかわりたくなる気質になってしまったというか。

 

何気ないアドバイスが、シングルマザーを支えた

江戸川区には、ひとり親が約6000世帯ほど。離婚後に手当の申請のために、日々多くの方が来られる。手続きの後、いつも最後に「生活で何か困っていることありますか?」と尋ねます。

 

あるとき、「生活保護を受けて、母子家庭であることに後ろめたさを感じる」と答える、若いシングルマザーのCさんがおられました。「離婚をして、0歳と1歳の子をかかえて、肩身が狭いんです。外でお惣菜を買ったり、クリスマスにケーキなんか、食べちゃいけなんじゃないか…」と、私に切実に話される。「いや、違いますよ、お母さん」と。「働けるのに働かないで生活保護に、ずっと頼ろうとするのは問題だけど、今大切なのは子どもとお母さんの生活の安定。人にお世話になって…と思うなら、お子さんとの生活を大切にして、自立を目指していくことが大切じゃないですか」と、言ったらしいんです。

 

らしい…というのは、その4年後にCさんが、再度窓口で私を訪ね、「あのときこんなアドバイスを受けて、心の支えになりました」とお礼に来てくれて。「今日、晴れて生活保護を終えることができたんです」と、報告されるのを聞き、「自分の言葉で、救われる人がいるんだ。この仕事って、なにか未来に向けて『種』を撒くようなことなんだな」と、しみじみ思いました。

 

後に管理職として文化共育部健全育成課に異動し、そして、江戸川区児童相談所の勤務に至っています。

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