介護職に、外国人を

外国人

<インタビュー・海老根清剛さん>

水頭症の息子を支えるため、タクシードライバーに

うちは3人子どもがいるんですけど、真ん中の次男が、重度の障害児でした。生まれたときから水頭症で、ずっと歩けない状態が続き、今43歳になっています。

 

40年前、千葉県の幕張に住んでいたのですが、奥さんは看護師、僕は団体の職員として働いていました。そのとき、この子をどうやって介護していくか、夫婦で話し合ったんです。7歳になれば養護学校に行くことになるにしても、学校の送り迎えが必要に。両親が勤務中の日中、まだ幼い息子や娘に、次男を任せることもできない。かといって、夫婦のどちらかが退職して家にいるというのも、経済的な問題があって難しい。

 

結局、僕の方が、時間の融通がきく自営業をしたらどうかと考えたんです。すぐに出来そうに思えたのは、個人タクシーでした。近所でその仕事をしていた人に聞くと、タクシー会社に10年間勤めた後、申請して試験を受け合格すれば、個人タクシーになれるとのこと。すると、いつ仕事をして、いつ休んでという生活スタイルを自分で決められる。資本は、車1台あればいい。また、タクシー会社は、普通の会社より、子どもの世話をする時間もつくりやすい。次男が高校に進むまでの10年間に、それ以降10年間動ける体制をつくっておこうとしたのです。

 

ちなみに水頭症とは、脳の表面にたまった水が、脳細胞を圧迫して障害を起こす病気です。ほっておけば命にかかわる。そこで、頭に穴を開けてチューブを入れ、皮膚の下を通してお腹に流す手術します。20歳ぐらいまでは成長期なので体が常に大きくなり、チューブが短くなるたびに入院し、手術を合計20回繰り返しました。夫婦2人が常に働くことは、なかなかできませんでした。

 

障害者の支援が手厚い足立区に移り住む

10年後、計画通り個人タクシーとして独立。夜間に都市部に出て、千葉・東京間といった長距離を走り、日中は家にいて子どもの面倒を見ていました。しかし、新たな問題も出てきます。次男が、特別支援学校の高等部を卒業する年齢に近づいたからです。障害者として学校から出ても、行き場所がない。ずっと在宅になるのは、本人、家族にとってつらいことです。

 

いろいろ調べました。在住していた千葉県とお隣の東京都を比較したら、都の方が障害者に対する補助金など支援体制が手厚いこと、東京都足立区の神明障がい福祉施設なら入所させることができそうだと分かりました。そこで、家族みんなで、ここ足立区に越してきたのです。

 

同施設に通うようになると、学校時代と同様に、朝は私たち親が支度して次男を施設の送迎バスまで送り、夕方送迎バスまで迎えに行って帰宅し、夕食を家族でとって過ごし、その後就寝するという生活サイクルを続けられました。また、当初は5年間のみの在所と決められていましたが、制度が変わり、ずっといられるようになったことも幸運でした。

 

障害者自立支援法(2006年施行)により、ヘルパーさんが家に入るようになってから、生活が一変しました。朝の支度、出迎え、食事の世話までしてくれるので、奥さんも僕も、自分の仕事に集中できるようになったのです。

 

団地の高齢化がきっかけで、介護事業を立ち上げる

介護の仕事にかかわるきっかけは、区内の団地の高齢化が進んだことから、団地自治会が介護保険事業を立ち上げたいとのこと。そして、看護師の奥さんに参加してほしいと声をかけてきたのです。彼女はケアマネージャーとなり、3人のヘルパーさんと共に働き出しました。NPO法人なって運営すると、介護報酬は、業務に出ない理事たちと、実際に現場で働く介護者たちの両方に支払われました。

 

同じことなら、自分たちで訪問介護の事業を立ち上げた方が、もっと自由にできるのではないかと、僕たち夫婦で、有限会社「ケアサービス とも」を、2005年に設立。「とも」というのは次男の名前です。自宅に、複合機とFAXを置いて、ケアマネジメントと訪問介護事業をやり始めました。

 

やがて利用者さんが増えて、ヘルパー業務の人手が足りなくなる。「じゃぁ、僕も勉強して、ヘルパーになろう」と、日中の時間を生かして勉強し、資格を取得。長年の次男の介護から、食事や車いす移動の介助なども経験していたので、高齢者介護の仕事に抵抗はありませんでした。また、NPOで働いていたときの奥さんから頼まれ、自分のタクシーで、花畑団地のお年寄りを病院に送り迎えしたことも。当時はまだなかった「介護タクシー」のはしりもやってたんです。

 

そのうち、ケアマネジメントとヘルパー業を同じ会社でやっていることが、制度的にそぐわなくなり、会社を分離することに。2006年、ケアマネージャーの奥さんが母体の会社の代表となり、ヘルパーを使う新会社の代表を僕が務めることになりました。

 

「自宅で最期を」と望む利用者の想い受け、小規模多機能施設を

会社を運営するうち、大きな課題に直面しました。高齢の方の介護を続けていくと、最後には亡くなられる。あとそんなに長く生きられないとなったとき、当時の介護施設では、「対応できません」というケースが多かったのです。うちでは、それを言いませんでした。そもそも、「自宅で最期まで過ごしたい」という利用者さんは80%おられ、病院や施設に入りたいという方はむしろ少数だからです。しかし、訪問介護の業務だけで対応するのは難しい。

 

どうしようかとなったとき、2年ほど前から出始めていた「小規模多機能型住宅介護」という介護サービスに思い至ったんです。「通い」を中心に、「訪問」や「泊り」を組み合わせた形態です。「そうだ、これを自分たちでやろう!」となりましたが、施設をどうするか。当然、建設費となる億単位の資本なんてありません。でも、日中15人ほどみる小規模多機能であれば、自宅を改築すれば「施設」になるのではと。そこで建築設計事務所に入ってもらって、リフォームしたのです。定められた公道からのスロープの緩い傾斜は、入口を家の奥にして距離を伸ばすことで解決。設置義務のあるホームエレベータは、一回り小さい「段差を解消する装置」に。それで元々狭い敷地の中で、利用者さんが寝泊まりできる必要な部屋のスペースを確保。設計事務所に役所と交渉してもらいつつ、いろいろ工夫して、なんとか2008年に「小規模多機能型居宅 ともの家」の建物をつくり、開設できました。

 

その後も事業は順調に拡大し、国の補助金も得て、居宅介護事業所、訪問介護ステーション、グループホーム、看護小規模多機能、有料老人ホームなど、足立区内に8事業所を展開するまでに。現在、職員数は約170名となりました。

 

人の死を何度も目の当たりにして、「看取り」を学ぶ

この会社の一番の柱は、「最期の看取りまで寄り添う」ということ。昔、人は死を自宅で迎えましたが、それがだんだん病院に移り、祖父母や親を看取る機会が少なくなりました。ヘルパーさん自身も体験している人が少なく、介助や介護の仕事の上に、「看取り」までやるとなると、心理的にも大変なことでした。高校の新卒で就職した、人生経験のない若い人であればなおさらです。

 

死が近づいて、だんだん食べられなくなる、飲める量も少なくなる。うつらうつらしていく中で、あるときパッと呼吸が止まる…。経験豊富なヘルパーさんや、医療の教育を受けた看護師さんと一緒について何度も経験すれば、「人が死ぬというのは、こういうことか」と体感し、やがて慣れていくものです。仕事としては、ヘルパーさんにも、末期を迎えられる方の、タンの吸引や口腔ケアなどの医療的な処置も学んでもらうことに。国が定めた規定となりましたが、僕たちの場合、現場で直面することから学び対応するうちに、現在の介護の形に自然となっていきました。新人研修では、小規模多機能施設が舞台となった映画『ケアニン』(鈴木浩介監督)を見せてもいいかなと。

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