「イスラム」視点で、 外国ルーツの子をサポート

外国人

「支援」というより、人間同士としての「助け合い」を

今、自分は支援者という立場で働いていますが、支援された経験もたくさんあります。良いこともあれば、傷ついたことも。だからこそ、支援される側の気持ちを絶対忘れちゃいけないというか。支援者は支援する人を、よく「困った人」と見てしまう。その人が「100」という人間だとしたら、「3」ぐらいは困っているけど、あとの「97」は困っていないというのを見失いがちなんです。

イスラム教では、「助けられる側が引け目を感じないよう、善行は、みんなが見ていないところでやりなさい」と教えます。「善行をすることによって、徳を積ませていたただいている」という意識を大切にしなさいと。すべての支援活動に通じることだと思うのです。

 

また、支援者が陥りがちなことに、支援者自身の「依存」があります。子ども支援の業界は初めてなのですが、かつて障害者施設に勤めたり、カウンセリングの勉強をしたとき、仕事にすがってしまう人が一定数いることに気が付きました。特に、経験のない若い支援者が、自分を頼るクライアントと共依存関係になり、トラブルになって逃げてきたという話も聞きます。のめり込みすぎないよう自分をどうコントロールするかを常に意識しています。もう若くないし、自分の家庭もあるので、うまく線引きできるのかもしれませんが、ここでも信仰が役に立っています。神様に、すがり放題すがれるから、人にすがらなくていい。

 

外国人の支援では、相手の価値観の違いをしっかり認識すべきです。

ツイッターで見つけた記事で、興味深いものがありました。アフリカで活動する日本人の支援者が、当地のムスリムの若者に「どんな夢がある?」と尋ねると、「ありませんね。神様が人生のすべてを決めてくれるから」と返事。すると支援者は呆れて怒るわけです、「何でやる気がないんだ、 夢を持て!」みたいな。違うんです。それは、私たちムスリムが祈りの言葉として日々唱える「インシャ・アッラー」、つまり「神が望まなければ何も起こらず、神の意志が全ての人間の意志に優先する」という考えに基づく返答だったんです。怒って彼を見下すポイントではない。

 

私は、イスラム教に改宗したことで、日本人と外国人の宗教観のズレが良く理解できるようになりました。海外から来たお母さんが、宗教で何を心の支えにしているのか分かる。一方、周りにいる日本人が、彼女をどう見ているかということも分かる。両方見えるので、お互いの誤解をとくことができる。それが私の強みであり、役割なのかなと。

 

これまでの人生で、本当に大変なことがありました。自身の大病、パートナーの死、シングルマザーとしての子育てなど。家族問題では、親と音信不通が続いていること…。夫がアフリカ人であることが許せないんです。人種を差別する家庭に、こんな娘ができちゃう(笑)。

最近、ネガティブなことも含めて、すべての経験が、今の自分に生かされていると思えるようになりました。今後かかわる人には、人生コケることがあっても、「なんとかなる」ということを伝えたいなぁと。

 

「日本」という息苦しさに悩み、海外に脱走

「多文化共生」と言えば、対象が「宗教」「外国」というだけになりますが、「ダイバーシティ」とした方が、「障害」や「セクシュアリテイ」も含み、共生の対象の枠が広がります。マイノリティの人たちも、もっと生きやすい社会にならなければと。

 

「なぜ、日本では障害者が生きにくいのだろう」と、海外での体験と比べて自問することかあります。

メキシコを訪れたとき、ある街角で、小人症の子どもが、普通にみんなと遊んでいました。走るのも遅いから、できないこともいっぱいあるけど、誰も気にしない。私に対しても、友達の1人が「あの子は、ああいう子なの」と説明。差別もなくいいなぁと。

当時私はひどいアトピーで、それを向こうの人は、結構ずけずけ聞いてくる。「アレルギーがあって、蚊に刺されると、こんなに腫れるの」と言うと、みんな気の毒がっていろんな薬を持ってきてくれる。また別の人が、赤い斑点のある私の足を見て、「あの人は病気か?」と周りに聞くと、他の人が「この人はこうで…」と教える。「ああ、そうなの」と納得したら、受け入れてくれる。知ったらそのことは、「ハイ、おしまい」。カラッとしています。

これが日本だと、聞いてこないけど、遠巻きでちょっと距離を保つみたいな。「奥ゆかしい」といえば、そうなのですが。

 

私、日本で、電車の網棚に、「すみません、これ上げてくれませんか?」と頼んだことがないんです。でも海外だと、飛行機やバスでも、棚に荷物を上げようと苦労していると、すぐに誰かさっと上げてくれたり、「手伝いましょう」と声をかけてくれたり。

若い頃は、そんな日本の、人と人が、どこかよそよそしい、遠慮する空気が嫌で。だんだん真綿で首を絞められるみたいに、とっても息苦しくなる。「ああ、もう無理…」となるたびに、海外に飛び逃げ出したものです。

 

神のジャッジに身をゆだねて、楽になる

だから、日本で暮らせていけるのかな、という想いがずっとありました。子どもができて、日本で育てるしかないと思って帰ってきたんですけど、ムスリムになったことで「あっ、大丈夫かな」と、ふっきれたんです。

 

2019年冬から2020年1月まで、サウジアラビアに行っていました。「ウムラ」という小巡礼ツアーに、サウジアラビアの財団が無料で招待してくれたのです。イスラムに改宗した人に、イスラムの素晴らしさを知ってもらおうというもの。日本から来たというと、みんなすごく喜んでくれて、会話も弾むし。そのとき、世界との一体感を感じました。地球の大きなコミュニティのメンバーになったのだと。今は、日本人というより、ムスリムとしての意識の方が、だんだん強くなりつつあるかな。

 

結局、評価を気にするべきは、人間じゃなく、神になったので、それも楽になった原因かもしれません。今までは人の目がどうだとか、親がどう思うかとか気にしていた。でも、もう人間のジャッジなんて、神様のジャッジに比べれば痛くもかゆくもない。守るべきは、神様が「しなさい」ということを実践すること。それに対して努力していれば、「何か良いことあるかも」と希望が持てる。イスラム教では、たとえ間違った行為をしても、「ごめんなさい」と反省すれば許してくれるので、ストレスにならない。私は宗教で救われたタイプかな。

 

(聞き手/ライター上田隆)

 

<問合せ>

YSCグローバル・スクール

https://www.kodomo-nihongo.com/index.html

 

YSCグローバル・スクール あだち・竹の塚教室

https://www.kodomo-nihongo.com/info/news/20201008.html

 

銀座No! Hate小店

銀座No!Hate小店
わたくしたちは、多文化共生社会の実現を目指しております。 誰もが笑顔で働き、暮らすために「グローバルマナー研修」をはじめとした多彩な研修・講座・サービスを提供いたします。

 

 

 

 

 

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました