「イスラム」視点で、 外国ルーツの子をサポート

外国人
イスラム教は、日本人にとっつきやすい親切な宗教

日本では、まだみなさん、イスラムに対して「怖い」というイメージをお持ちなんですが、イスラム教って「良い人なりたい教」みたいな感じなんです。例えば、「いつも清潔に」「人には親切を」「謙虚に」などという規範があり、日本人がすごくやりやすいというか。海外のムスリムから、「日本人って、最初から、ほぼムスリムだよね」と、よく言われます。

 

コーラン(聖典)には、「いかにしたら人に好かれるか」ということが、結構書いています。「喧嘩するのは何日まで。これ以上仲たがいしたら、あなたは地獄に落ちますよ」と。それもあって、ラマダンの月になると、ムスリムの知人から一斉に「ごめんなさいメール」が届く。「あなたの知らない間に、私が何か怒らせたかもしれない」と謝るメールが、アフリカからも来る。義理で送る面もあるのでしょうが、悪い気はしない。

 

イスラム法では、生活への指針が細かく示されています。「結婚生活においては、少しお互い嫉妬させるのが丁度良い」「セックスにおいては、男ばかりが満足してはダメ」なんてことまで(笑)。人間臭いというか、本当に実践しやすい。世界宗教としての歴史的な蓄積があり、心の機微を知り尽くした法体系には、やはりすごいものがあります。

 

ムスリムの最終目標は、天国に行くこと。そのためには、イスラム的にポイントをためないといけない。右肩に「良い行い」、左肩に「悪い行い」を書き留める天使が、それぞれ乗っています。「知らない間に罪を犯すのが人間だから、がんばって善行に励めよ」と、いつも見守っているわけです。

 

ガーナとモスクに、息子の「居場所」あり

私の家族は、それこそステップ・ファミリー。アフリカにルーツを持つ前のパートナーは、息子が生まれてすぐ事故で亡くなりました。それからずっとシングルマザーとして子育てしていたのですが、あるときイギリスの友人に、こうアドバイスされました。「日本で、しかも、アフリカンの子どもとして生きていくのはなかなかハード。彼のアイデンティティのためにも、お父さんがいたほうがいいよ」。「そうだな」と思って婚活し、ムスリムの友だちから紹介されたのが、今のガーナ人の夫です。結婚してみてラッキーだったのは、彼の実家の家族がとても良い人たちだったこと。特に、ガーナのお母さんは、まさに「アフリカの母」の見本みたいな人で、世話好きで、物事がよく分かっていて、それでいてもの静かで。とても尊敬しています。

 

2020年に半年間 、ガーナにある夫の実家で暮らしていました。この国は、クリスチャンが6割、ムスリムが4割ほど。他にもいろんな宗教がありますが、国民は互いの宗教を認めあってあり、暮らしやすいです。中でもムスリムは、助け合いが多いかな。道でタクシードライバーとムスリムのお母さんが何か揉めていると、知り合いでもないムスリムたちがワーッと集まって「何やってんだ!」とドライバーに詰め寄ってトラブルを解消してしまった。困っている人に対して、一致団結する気風があります。

 

ガーナでは、孤独感を抱くことはないですね。というか、孤独にしてもらえない。日本に帰国してから息子は、「ガーナ、面倒臭い」と言いながらも、恋しがる。常に誰かいるからです。大家族だし、親戚もみんな近くに住んで、そこらへん、うろうろ歩いている。暇なおじさん、おばさんがいっぱいいるし、子どもたちが道にあふれている。日本から来た息子を見つけるなり、みんなが彼の名前を呼び「寄っていきなよ」と声を掛けてくれる。昔の日本みたいなコミュニティが残っていますね。だから、学校から帰宅しても寂しくない。

 

私に怒られふてくされ、「今日は帰ってこない!」と息子はおばさんの家に行く。「泊まらせて」と転がり込むと、おばさんも「ああ、いいよ」と。1週間ほど面倒を見てもらうと、飽きるか、または寂しくなるのか、「ママ、元気?」と帰ってくる。

 

ここでは、「引きこもり」はないでしょうね。やはり人の中で育っているというか、みんながかまってくれるし。

 

また、ムスリムで良かったと思うのは、日本でも息子に居場所があるということ。今はコロナで行けていませんが、モスクには礼拝や子どもの勉強会などで通っています。日本の子どもは、学校と家しかないでしょう。もしこの宗教的な場がなければ、ハーフの息子は、どんどん孤立していったかもしれません。私自身も、モスクに通うことで、たくさんの良い友人たちに恵まれ、楽しく暮らせています。だからこそ、困っているムスリムの奥さんがいたら、相談に乗ったり。旦那さんのビザの問題や経済的なことなど、いろいろと。

 

「ダイバーシティ」の現実を、理想に近づけるには

街に住む外国にルーツを持つ子どもと、日本の子どもが付き合うのは、絶対良いことだと思います。ただ、そこで大人が、どのようにフォローするか。もし一言でも、「あそこは外国人だからねぇ」とか「ああ、やっぱり〇〇人だしね」と言っただけで、子どもの見方は変わる。自分より下に見てしまう。人種や出身国で差別するのは間違いだということを、早いうちに子どもの心に落とし込んでいかないと。

 

残念ながら、外国人に対する差別的な意識は身近にあります。都内で外国人の友人の家を一緒に探していると、ある不動産店は、「あんた、何人なの?バングラデシュ人なら、貸さないよ」と拒否。「なぜか?」と聞いたら、「一番ひどく家を汚されたことがあるからだ」と。日本人だと、ごみ屋敷にしたら本人しか咎めませんが、あるバングラ人に貸してこうなったら、バングラ人がぜんぶダメみたいな。考え方が雑なんです。日本人は、海外から来た人に対し、人として一対一で接することができない。相手の背景を知らなさすぎることもあるのですが。

 

文化ギャップによる摩擦も当然起こる。それこそ、夢のような「多文化共生」はありえないと思っています。「これからは、ダイバーシティだ」と唱える人に、いつも尋ねることがあります。「となりに、南アジア出身の一家が越してきました。彼らのつくるスパイシーな料理の香りが、毎回、毎回、あなたの家の中にまで漂ってきます。あなたは、どんな風に感じますか?」。「仲良くしよう」と呼びかければ、同時に困りごともやって来るわけです。それらも受け入れてのダイバーシティかなと。決して、甘くない。

 

外国人の人口が都内で3位の足立区は「多文化共生推進計画」などの指針も出し、自治体としては頑張っていると思います。それでも、足立区の議員さんがLGBTに対して問題発言をしていましたが、価値観自体を変えるのは、まだまだこれから。でも、それを待っていたら間に合わない。制度をどんどん変えて、枠をつくり、そこにみんなが追いつくようにした方がいいんじゃないか。

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