親が喰らう子、ヤングケアラー

ヤングケアラー

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<インタビュー・平島芳香さん>

 

同じヤングケアラーと語れる「居場所」を見つける

2012年に、両親はそれぞれ別の病気で通院していましたが、父は統合失調症、母はうつの診断が下されました。その時に初めて、これまでの世間常識から外れた行動を理解。

さらに同じ頃、義理の父の行動も怪しくなり、診察したらFTD(前頭側頭型認知症)という珍しい型の認知症でした。それを聞いた義理の母がうつになってしまって、一カ月に4度も救急車を呼んだかな。結局、うちの親が足立区内の同じ病院に入院、義理の父が実家で療養、義理の母が別の病院に入院。4人一度に対応しなければならになくなり、「ちょっときついぞ」と。仕事も大変になり、肉体的にも精神的にも追い詰められ、私自身が余裕を失っていきました。

そのとき、思ったんです。手続きすると病人は、社会保障が受けられる。半年病院に通えば自立支援医療の申請ができるようになるし、精神障害者手帳をもらえるし、税制の優遇がある。しかし、病んでいる親たちを支えている私には何の補償もサポートもない、「どういうこと?!」と。

 

「自分自身をケアしないと、もたない」と思い、足立区役所に、精神疾患の親を介護するケアラーが集まる会がないか尋ねてみました。同じ立場のケアラーたちと語り合い、息抜きできる場所が欲しかったのです。でも「ない」との返事。しかたがないので自分で、ある精神科の家族会団体を見つけて顔を出しました。精神疾患の親の立場を重視する会で、子どもが対象になっていない。なんか違うなと。それで認知症のケアラーのカフェにも行きました。「エンディングノートの書き方」の講座をしていて、なんでケアラーが…と。ここも違う。まだその会も立ち上がり始めで、模試行錯誤の時期みたいでした。

 

ネットで探すと、精神疾患のある親たちに育てられた子どもたちが集う「こどもぴあ」に出会って、初めてしっくりきました。他の人に言っても全然通じないことが、「そうだよね」と共感される。ただ日常会話するだけでよく、心がほぐれてくる。「私、『ヤングケアラー』だったの?」と、ここでその言葉を知りました。

 

「殺しに来る存在」としての親を、隠して暮らす

子ども時代、友だちには、自分の親のことは話しませんでした。言っても相手が困るだろうなと。小学校高学年にして精神的には「大人」になっていて、同級生は、私にとって『子ども』」。だけど当時は、親のことを悩んですらいなかった。当たり前のことだったからです。もし「大変じゃないか?」と心配されたら、「日常生活なんですが、何か?」みたいな。

 

「普通」って言葉が嫌いですが、普通の一般的な子どもが育つ家庭では、親は必ず子ども守ってくれる「最終の要」とされる。私の親は、「要」の意味が違っていて、子どもを殺しに来る存在なんです。父親からは、言葉で攻められたり、暴行を受けたりしました。特に頭をよく叩かれたかな。首を絞められることもしょっちゅうで、刃物が出てくることも。もの心ついたときから、「この人は、なにか違う」と本能的には感じていました。母親にも頼れません。最初の記憶でも、私が泣いても授乳してくれない無気力な人でした。泣いても排便したオムツ替えはしてくれないので、気持ち悪さから早々にオムツを卒業したくらいです。子ども心に、「親というのは、何にもできないものだ」と思っていました。

 

たとえ相談するにしても、学校の先生にはできなかったですね。家のことが外の世界に知れてしまったら、「私たち子どもは、もっと親に虐待されてしまう」というのが、「こどもぴあ」の家族学習会プログラムで出会った同期仲間での共感ポイントなんです。家族の中に精神疾患の人がいると、親戚にも言えない人が多い。精神障がい者が一人いるだけで、兄弟姉妹や親戚の結婚にさしさわりが出るからです。家族の中でもごく一部の人が知っていなけばならない、という無言の圧力がある。もらせば、身内から攻撃される。だから、精神疾患の親を持つヤングケアラーの存在は、とても見つけにくいのです。

 

「人の助け」と「給食」で食いつないだ子ども時代

子ども時代、家事はすべて自分でやっていました。やり方は、近所の人から学びました。当時、長屋のアパートに住んでいて、私たちを見かねた近所のおばあちゃんがよく来てくれて、洗濯物やら畳んでくれました。それを見て自然に覚えたんですね。隣近所が助け合ういい時代だったのかな。

 

自分で家事をしないと、まず食べ物が確保できなかった。親に料理してもらった記憶はありません。父は職を転々としていて一家は経済的に貧窮していましたから、そもそも食材がない。緊急避難的に人のうちに食べに行くこともよくありました。

 

保育園に通っていた頃は、月曜から土曜まで園内の給食で食いつなぎ、日曜はなんとか家で食べていました。しかし小学生になると、夏休みに食料調達に困るので、その期間、親は、私と妹を母方の親戚に「疎開」させました。親戚から、「生活保護を受けるか、子どもを手放せ」と言われていたらしいけど、親は生活保護を絶対受けませんでした。そうすることは、「人生に敗れた人たちだ」というイメージがあったようです。私を手放すと、自分たちや、まだ幼かった妹の面倒をみる者がいなくなって困ることもあったのでしょう。

 

小学校高学年になると、いろいろと気づくようになりました。「人の家に行ったとき、なんで布団がたたんであるの?」とびっくり。食事が1日3回あると、胃がもたれるのではないかと心配に。林間学校で、みんなが毎日お風呂で髪を洗うことを知り驚く。こちらは、一週間に一回しか洗わないからです。

 

中学校に出たら、働こうかなと思っていました。家事に時間を取られて受験勉強はできなかったし、進学する予定もなかった。成績は良かったんです。テストの15分前に教科書とノートを広げて確認すれば、点は取れた。学級員をずっと務めた優秀な生徒でしたよ(笑)。そんな私が「進学しない」と宣言すると、学校で大騒ぎに。それで親が呼び出されて。先生から言われると弱くなるのか、「都立高校へ行かせます」となりました。後で、授業料の月1万円を支払うかいなかで、親とさんざん揉めましたが。

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