貧困の子に、「体験」を

貧困
「当たり前は、当たり前でない」と、バリ島で子どもは学ぶ

子どもたちを、海外に連れて異文化を体験させる活動もしています。ヒントになったのは、以前勤めていた大手英語教室で行っていたアメリカ旅行。しかし、私はタイでのボランテイアの経験から、アジアに興味がありました。同じ英語を勉強していて、まったく違う環境に生きる子どもたちに引き合わせたいと、タイのツアーの経験を踏まえて(食事がダメだったので)、2000年、私の英語塾で学ぶ小学生たちをインドネシアのバリ島へ連れて行きました。

 

行けば、当たり前のことが、当たり前でない。日本の子どもたちが最初に驚いたのは、教室の子どもたちが、教科書もなく、紙とボールペンしか持たないのに、教師が平然と授業を進めていることです。私の生徒たちが、「先生、みんなでお金を集めて、コピー機を買ってあげよう」と提案。しかし、電源やコピー用紙の問題もある。「トラックを贈って、橋がなかった」という海外支援でありがちな事態になると却下。「では、辞書を買ってあげよう」となり、インドネシア語の英語辞書を買って贈りました。しかし、次の年、同じ学校に行った私と生徒たちはがっかり。「大切なものだから、特別な時しか使わないように」ということで、辞書は金庫に大切に保管されていた…。

 

インドネシアでは、紙が貴重で、そもそも本の発行部数が少ないことに気づきました。そこで、日本で募金を集め、図書館をつくろうということに。最初は500冊ぐらいから始めようと考えていましたが、話を聞きつけたバリ島唯一の国立図書館(首都テンパサルにある)が、不要になった本を1000冊贈呈してくれました。

 

村はジャングルの中にあり、図書館に予定している建物まで、現地の子どもたちの足で1、2時間かかります。そんなところにポツンとつくるので、「他の村人も使いたいと言ってきます。どうしましょう?」と、村人が遠慮がちに尋ねてくる。「みんなで使えばいいじゃないの」と答えると、向こうは驚くわけです。「親戚でもない知らない人に貸して、無くなったらどうするんですか?」と不安がる。「しょうがないんじゃない」と言えば、「ええっ?!」って、呆れて笑うわけです。本を貸す、という文化がない。そこで、図書館のルールを、翻訳してもらい文にしました。

 

生徒たちは、強烈な体験をしたみたいです。もっとも、あちらもそうで、お互いにカルチャーショックを受ける。それが楽しい。

 

エイズに冒された少女を支援する施設に

36年前、タイでボランティアを始めたきっかけは、当時の住まいの近く、島根1町目の美容室でのこと。置いてあった女性週刊誌をめくると、山岳民族の少女たちが人買いによって首都バンコクに売られ、エイズにされて帰されたという記事を読んだのです。彼女たちを救済している財団はキリスト教のバプテスト派のグループで、チェンマイで活動していると書いてある。そこでなじみの旅行会社に場所を調べてもらい、早速現地に飛びました。英語からタイ語、タイ語から現地語のできる通訳者を見つけてそこへ行くと、大きな衝撃を受けました。

 

少女たちが、バンコクから売られた先は、ヨーロッパでした。当時そこでは、エイズになったら、10歳前後の処女と性交渉をすると、エイズが治るという迷信がありました。そこでバンコクの人買いが「娘さんを学校に行かせるから」と、二束三文を親に渡して少女たちを連れ去ったということです。

 

支援施設では、病を患う少女たちを保護し、治療。その間、彼女たちに自分たちの民族衣装を羽織った人形をつくらせて、ボランティアの運営資金を捻出していることを知りました。

「入院している延命わずかの少女に会いますか?」と施設長に言われたときは、さすがにそこまでの覚悟がなく、行けませんでした。

 

何年かその施設でボランテイアをやっていましたが、あるとき親しいスタッフが「カズエは、本当は何がやりたいの?」と尋ねます。「私はもともと教育のフィールドだから、識字教育かな」と答えると、ドゥアン・プラティープ財団に行くことを勧められました。バンコクのスラム街の中で、貧困の子どもの教育事業を行うところです。

 

休みごとにタイと日本を往復する期間を経て、今度はプラティープのスタッフから「カズエの後ろには子どもたち(生徒)がいる。自分でボランティア組織を作り、後継者を育てるべき」とアドバイスされました。活動の場で知り合った人からのアドバイスで今の私があります。

 

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